エピキュリアンの屁理屈


「時間とは、微小な点の連続だ」

 空には鈍色の雲が立ち込め、霧のような小雨を降らせている。
朝から降る雨に、すっかり冷え込んだ秋の日。その放課後、彼ら以外誰もいなくなった教室で、二人は机を挟み向かい合って座っていた。
カツカツ、とシャーペンで机を叩く音。

「矢は的に当たらない」
 シャーペンをくるりと回すと腕を組み、常葉和巳はそう語り始めた。
「何故なら、矢が的に当たるためには、発射点と的との中間点を通らなければならない。その中間点に到達するためには、また中間点を通らなければならない。こうしてどこまでも空間を分割していけば、永遠に矢は的に当たらない」
机の上に置かれたルーズリーフに、和巳は直線を引くとその中心に点を打つ。その点と左端との間にまた点を。その二点の間にもさらに点を。そうして点を増やしていく。
窓の下の方で、弓道部が的を射る、小気味よい音。
「時間も、それと同じだ」
 彼の話はさらに続く。再びくるりと回るシャーペン。
「一の十分の一は割、割の十分の一は分、その次は厘、毛、糸、
忽……そして弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、奄摩羅、と来て涅槃寂静まで。理論上はさらにどこまでも分割できる。そうやって分割していったら、いつまでも一は二になれない。したがって、時間とは進まないものだということになる」
沈黙。腕を組んだまま、和巳は仏頂面で押し黙る。壊れた雨どいからベランダに落ちる水の音が、やけに大きく教室に響いていた。それ以外は、何も聞こえない、静寂に満たされた教室。

「……あぁ、よぉーく分かった」
 ふいに、その静寂を破る声。彼と向かい合って座っていた、三笠良乃の声だ。彼は大きく頷いた。そして、一つ大きな欠伸をすると、頬杖をついて言った。
「お前が開始十五分にして数学の勉強に飽きたのは良く分かった。分かったから、そんなに点が好きならさっさとこの三次方程式を微分しろ」
良乃は手の甲でこんこん、と開かれた参考書を叩いた。『三次関数の極大値・極小値』と書かれたそのページは、和巳のほうに向けられている。そして和巳の手元には、数式が書かれたルーズリーフ。
「……なぁ良乃。数学教授を除き、この世で仕事上微分積分を使っている者などいるのか? 俺はいないと思うが」
尚も悪あがきをするらしい。和巳は腕を組んだまま、一切その問題に取り組もうとしない。良乃はいつもの事ながら呆れを感じつつ、取りあえず正論を言う。
「そーいう問題じゃないだろ。論理的思考を身に着けるのが大切なんだよ、この場合」
「それは評論を読めば身につく」
 即答。取り付く島も無い。良乃は溜息をついた。だいたい、和巳の方から「教えろ」と言ってきたくせに、どうして飽きたからと言って屁理屈を聞かされなければならないのだろうか。
そしてどうして自分がそれを宥めなければならないのだろうか。
「どこかで使うかもしれないだろ、ほら、マグロ漁とか」
「なんで俺が漁に出ることになってるんだ」
 冗談を言ったつもりだったが真顔で返される。通じないことなど初めから分かっていたのだから、言うんじゃなかった。良乃は額に手をやる。
「だからな……」
 と、ここで良乃はようやく思い出す。そうだ、とどめの一言があったのだ。
「ってか、お前、国立志望だろうが! どーすんだよ、また赤点とったら!」
すると和巳は、む、と言って口を引き結ぶ。そしてしばらくその無感動な眼で目の前の数式を眺めると、ようやく渋々といったように腕を解いた。
「……それを、言うな」

 中間テストが二週間後に迫っていた。和巳は国語ではいつも学年トップなのに、数学では万年赤点。一方の良乃は、国語はからきし駄目だが、数学ならば他の教科より出来る自信はあった。つまるところ、上手くやれば互いの不得意を教えあうことができる。最初の頃、良乃はそれを狙って彼の要請に応えていた。ところが、彼は自分だけ教わっておいて、良乃には一切教えようとしない。何とか懇願して一度だけ古文を教わったことはあるのだが、その時もやたら抽象的なことを言われて訳がわからなかった。
 それ以来、もう一生数学教えてやらない、と心に決めたはずなのだが……。

 良乃は思い返して独り肩を落とした。和巳は先ほどから、時折舌打ちをしつつも、それなりに順調に問題を解いているようだ。自分も彼と同じページの問題を解きながら、良乃は一先ず安心した。
 と、はたと和巳の手が止まる。
「……どした?」
 何か分からないことでもあったのかと思い尋ねると、和巳はルーズリーフを眺めて呟いた。
「……人間は、一瞬の思い付きを積み重ねて成長してきた。それは本当に素晴らしいことだと思う」
「なんだ、応用問題でも解けたのか」
突然の抽象的発言にも慣れたもので、良乃は嬉しそうにそういうと、和巳の手元を覗き込んだ。しかし途端に和巳の手で押し戻されてしまう。そして、和巳は続けた。
「だが俺は今、微分を発見した奴を全力で罵りたい……」
「いや待て、やっぱり解けてないんじゃねーかお前」
「解けないものは解けない」
 思わず素早く突っ込む良乃に、開き直る和巳。彼は再び腕を組む姿勢に戻ってしまう。またふりだしに戻ってしまった。良乃は遠い目をしつつ言う。
「まぁ、やってみろって。微分までは出来てるんだろ? あとはグラフ描けば大体分かるから、ほら」
「嫌だ。分からなくていい。分かりたくもない」
どうやら完全に拗ねたらしい。こうなると、昔からてこでも動かないのだ。だが、高校生にもなって、数学の問題が解けないからいじけるというのもどうかと思うが……。
良乃はもはや溜息をつくのも面倒になり、遠い目であらぬ方向を見やった。いつもなら見事な夕日の見える窓からは、灰色の重くぶら下がる雲しか見えない。雨はまだ止まないようだ。できれば止むまで勉強していたかったのだが、そうもいかないのだろうか。そんなことを考えていた、その時だった。

「……いっそエピキュリアンの様に生きてみたいもんだな」
 和巳が腕を組んだまま、ぼそっと呟いた。良乃は視線を和巳に戻す。彼は心底つまらなそうな目で参考書を眺めていた。
「快楽主義だっけ?」
「時間が微小な点の集まりでしかないのなら、瞬間を楽しく生きたほうがいいだろう」
 良乃は少々の驚きを持って彼を見る。彼の口から出るには、あまり相応しくない言葉のように思えた。
「らしくないな。理論になってないぞ」
言うと、痛いところを突かれたのか、和巳は目を閉じて目と目の間を揉んだ。
「……俺は疲れたんだ」
「そんなに数学が嫌いかお前」
 突っ込むと、和巳は至極真剣な顔をする。そして言う。
「あぁ、俺は数学が、大嫌いだ」
「……どっかで聞いたな、その台詞」
 良乃は苦笑して呟いた。そこまで断言するほど毛嫌いするようなものなのだろうか。まぁ、自分が古文をどうしても理解できないのと同じように、彼も数学が理解できないのだろう。
 それにしても、と良乃は思う。別に和巳が数学が出来ようと出来まいと自分に関係はないのだが、かといって頼られて何も出来ないのも悔しい。しかし、十年来の友人である自分が相手では、どうしても甘えがあって真剣になれないこともあるだろう。それでは、どうしたらいいか。
 少し考えて、ある人物が頭に浮かぶ。良乃はぽんと手を打った。彼なら、適任かもしれない。
「そーだ、お前さ、あの友達の友達に教われば?」
「……は?」
「ほら、最近たまに図書室で一緒に本読んでる、海松だっけ?
 あいつ友達じゃないのか?」
 問うと、和巳は口元に手を当てて考え出した。わざわざ考え込むようなことなのだろうかと良乃は苦笑する。そして、しばらく考えて和巳はようやく思い出したのか、眉をしかめて言った。
「あいつは……勝手に話しかけてくるだけだ。別に友達とかじゃない」
 その発言に、良乃は噴き出しそうになるのをどうにか堪えた。
長い付き合いの自分が分からないわけが無い。本当に友人だと思っていないなら、話しかけられたとしても和巳が返事する訳がないのだ。しかし、会話しているところを、確かに良乃は見たことがある。
 良乃は笑いを堪えつつ、続けた。
「ま、とにかく、その海松の友達だよ。新橋って、六組の。あいつ学年トップだろ?」
「あぁ……」
言うと、和巳は何か思い当たる節でもあるのか、仏頂面をさらに忌々しげに歪めた。
「あいつは、いけ好かないから嫌だ」
「……いつの間に毛嫌いするほど知り合ったんだ」
「別に。なんとなく。多分あいつも俺のことそう思ってるだろうし」
 良乃は呆れて溜息をつく。誰かを嫌いになるのは勝手だが、後々問題を起こされたら面倒だと思ったのだ。和巳は思ったことをはっきり言うタイプだから、良乃は内心でいつも何かトラブルを起こさないかと心配しているのである。
 良乃は訳も無く、取り成すような気分になりつつ言った。
「ふーん……でも俺は、新橋そんなに悪い奴じゃないと思うけど」
 すると、和巳は半ば睨みつけるような目で良乃を見た。
「……いつの間に知り合ったんだ」
「別に?」
知り合ったのは、図書室まで和巳を迎えに行ったときなのだが、そこまでわざわざ言う必要はない。そう思って答えをはぐらかすと、和巳はますます眉をしかめて、低い声で言った。
「お前がそんな奴だとは思わなかった」
「なんでそんなに悪く言われなきゃならなんだ」
「……別に、悪い訳じゃない」
 和巳は、今や全く良乃のほうを見ていなかった。目を逸らして、どこか下の方を向いている。良乃はしくじったか、と内心で溜息をついた。どうやら、完全に拗ねてしまったらしい。昔から和巳は良く拗ねたが、その時の動作も一目で分かるほど昔から変わっていないのだった。それから、何故拗ねているのか、理由が全く分からないところも。

 今日はもう、勉強などできそうにないな。と良乃は肩を落として時計を見た。もうすぐ昇降口の閉まる時間だ。帰るには丁度良いだろう。
 しかし、今「帰るぞ」と声をかけたら、「帰らない」と言い張られそうな予感がした。いや、それはむしろ予感というより確信だった。なので、良乃は思考を巡らす。どうにかして、話題を逸らすことは出来ないだろうか。
 そこでふと、先ほどの『違和感』に思い至る。良乃はそれを、何気ない口調で言った。

「そういえばさ。エピキュリアンて、意味違うんだろ」
「……何が」
 話題が彼の得意な哲学に及んだからだろうか。和巳は無愛想にだが返事をした。それに心の中でほっとして、良乃は先を続ける。
「え、ほら、エピクロスが唱えた『快楽』って、なんか楽しい、とか気持ちいい、とかそういう意味じゃないんだろ? なんだったっけか、肉体と精神において乱されないとかなんとか……」
と、言い出してみたが、自分があまり正確に覚えていた訳ではなかったことが分かり、良乃は言葉を濁した。突っ込まれたら、答えられる自信は全く無い。
 しかし、予想に反して、和巳はポカンとした顔で言った。
「……なんでお前がそれを知ってるんだ?」
「え、お前が言ったんだろ」
「え」
 和巳が言ったことを忘れている訳がない。そう良乃は思っていたのだが、和巳は虚を突かれたような顔をしている。不思議に思いつつ、良乃は言った。
「お前が随分前に語って聞かせたんだろ。忘れたのか?」
「……いや、忘れてない。忘れてはいない、が」
 すると、和巳は珍しく言いよどんだ。少し動揺しているようだ。良乃は先を促す。
「なんだよ」
「お前が覚えていたことに驚いた」
 今度は、良乃が虚を突かれる。そして、しばらくして良乃はその言葉の意味を理解したのか、引きつった笑みを浮かべた。
「失礼なやつだな。ていうか『少しは覚えろ』とか言ったのはお前だろ」
「言ったには言ったが、前言撤回だ。物分りの良いお前は気持ちが悪い」
しれっとした顔で言う和巳に、思わず拳を握り締めた。が、張り合ってもしょうがないと思い直して、良乃はやはりいつものように溜息をついた。
 椅子から立ち上がって、荷物を片付ける。和巳もそれに続く。結局、大して目的は果たせていないような気がするが、なんだかもうどうでもよくなっていた。
 良乃は鞄を肩に背負うと、言った。
「ま、帰るか」
「……あぁ」

 気付けば雨は上がっていた。

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