エディプスの告解

夕暮れ時から燻るように聞こえていた雷鳴は、夜が近づくにつれ次第に激しくなり、やがて閃光を伴って鳴り響いた。窓の外が光ってから、雷鳴が鼓膜を震わすまで約四秒。たいして近くはない。外を見ると、遥か西の空を二分する稲妻。空が黒いのは、夜だから、という訳ではないだろう。そのうち雨が降るな、そう思った矢先に、ぽつぽつと降り出した雨は間もなく土砂降りになった。
 カーテンを閉めて、蓋を開けたままだったピアノの前に座った。今晩は両親とも遅番で、中学生の妹も遅くまで塾だ。誰にも憚ることなくピアノが弾ける。いつもの曲集を開いて、折り目をつけて譜面台に置いた。
 その時、ふと。微かな物音を、鼓膜が捉えた。鍵盤を叩こうとしていた指を止める。耳を澄ます。聞こえるのは、激しい雨音と、雷鳴だけ。
 けれど、確信があった。予感ではなく、もっと確実な予測。それがあっているなら、彼が来たのだろう。
 ピアノの蓋を閉めずに、立ち上がる。ドアを開けて、真っ暗な玄関に出る。暫く待つが、インターホンが鳴らされる気配は、ない。それでも、迷うことなくドアを開けた。
「……何してんの、お前」
 そこには、やはり予想したとおり、『彼』が立っていた。こんな唐突に、しかもこんな天候の中でやって来るのは、十年以上の付き合いである彼の他には、考えられない。
 声をかけても、彼は口を開きすらしない。髪の毛はすっかり顔に張り付き、袖からは水が滴っていた。ここに来る途中で、雨に降られたのだろう。
 溜息は、ひとつ。
「まぁ、とにかく、入れよ」
 彼はただ、黙って頷いた。

 
 タオルを貸してやり、一先ずリビングに通す。ピアノの蓋が開いたままだったが、そのままにしておいた。インスタントのコーンスープを作って、ソファーに座ったまま動かない彼の前に置く。そして、自分はピアノの椅子に腰掛けた。
 彼がこうやって、突然家を訪ねてくる理由は一つだ。だから、わざわざ尋ねる必要はない。ただ、彼が話したいことを話し出すのを、黙って聞けばよい。今までも何度かあった事なのだ。
 彼はただ座っている。コーンスープに口をつける様子はない。沈黙の中、ただ雨音が響く。窓の外が、また白く光った。
 
 差し詰め、『四分三十三秒』だ、と思う。休符のみで構成された、沈黙の音楽。ピアニストはピアノの前に座り、蓋を開け、そしてただそこに座り続ける。この『音楽』の真髄は、その沈黙により際立つ音を、特に観客のざわめきこそを、音楽と看做すこと。
 聴衆が語らなければ、音楽は完成しないのだ。奏者には、ただ待つことしかできない。

 四秒遅れて、轟く雷鳴。初め大きかったそれは、やがて尾を引いて小さくなり消える。その音が消えるか消えないかの頃、唐突に、彼は呟いた。
「家族、とは、どう定義されると思う?」
 予想通りの、抽象的な質問。どうせ答えを予期してはいない。だから、質問に質問で返す。
「お前はどう思うんだよ」
 俯いたまま、何処を見ているのか分からない彼の目。いつもは真直ぐなその黒髪は、乱暴に拭いたせいかやや乱れていた。
「辞書上の定義では、夫婦とその血縁者を中心に構成される、生活共同体の単位のことだ」
淡々と、語る言葉はおそらくこちらに向けられたものではない。聴衆(オーディエンス)と奏者(ピアニスト)は逆転する。ただ、聴衆(ピアニスト)は自己の内面深く問い続けるだけだ。奏者(オーディエンス)はそのためのツールでしかない。それを理解しているから、何も問うことはしない。
「家族。家庭。親子。親類。全ての言葉が血縁関係を前提に存在している」
 響く雷鳴。しかしそれも、彼の言葉を遮ることはできない。
「ならば、血の繋がりがなければ?」
 彼の組まれた指先は、白い。
「その共同体はどこまで俺を縛ることができるんだ?」

来たときから予想はしていた。予想は確信へと変わった。彼がここへ来た理由は、やはりいつもの通りだ。ならば、成すべき事は一つ。いつも、彼が口にせずに済ませてしまっていた一言を、今日こそ言わせてやろう。彼が語る言葉ではなく、そこに割り込むタイミングを計りながら、話に集中した。

 一際強く、光とともに轟音。どこかに落ちたのかもしれない。それが止むのを待って、再び彼は訥々と話し出す。
「エディプス・コンプレックスと言ってしまうのは容易いかもしれない。けれど俺はそんな歳ではないし、第一」
そこで彼の瞳は、細められる。珍しいことに、一瞬、躊躇うように口元が動いた。
「……俺には、対象となる母親が、いない」
 
エディプス。或いはオイディプス。それと知らず父を殺し、それと知らず母を娶った、ギリシア悲劇の主人公。それに準えた、自我発達段階の男児が抱く、父を憎み母を愛す感情。
 確かにそれは違う、と彼とは違う理由で納得する。確かにそうだ。父を殺せる程彼の刃は鋭くなく、母を娶るにも、彼の母は幻想の影でしかないのだ。

「だいたい、母性社会である日本に、この理論は馴染まない」
彼は、溜息をつくように言葉を吐き出した。それはまるで、そんな事を言いたいのではないと言っているように見えた。
割り込むなら、今だ。彼の、ずっと彼が彼自身に隠してきた本当の感情を、引きずり出すのは、今しかない。
息を吸い、吐いた。それからもう一度吸い、彼が再び口を開く前に、頭の中に浮かんだ言葉を、音にした。
「俺には、そういう難しいことは良く分からないからさ」
 彼が初めて、顔を上げてこちらを見る。真直ぐな目。臆することなく、それを射抜くように見て、問うた。
「もっと、簡単な言葉で言ってくれよ」
 彼の目が、見開かれた。気付いている。当たり前だ。今までずっと、目を背けてきたのだろう事実を指摘されたことぐらい、聡明な彼が分からないわけがない。

 沈黙。響く、雷鳴。

 俯いた彼の口元が歪んだ。ぎり、と歯軋りの音が聞こえた気がした。苦しそうな吐息が漏れる。
 そして。吐息は遂に、震える声に変わった。

「俺は、父親が、大嫌いだ」

 静かになった部屋に、クレッシェンドで響く雨音。互いに目を合わせず、口を開くタイミングを探った。
 予期していた通りの言葉。ただ一つ違うことは、彼が彼の父親を「父親」と呼んだこと。
 予想以上に、根は深いらしい。

「……また、お父さんと喧嘩したのか」
「喧嘩なら、どれだけよかったことか」
 普段は感情をあまり表さない目を憎々しげに歪め、彼は低い声で言った。また、歯軋りをしている。ここまで分かりやすく苛立つことなど、今までなかったのに。
「父は……俺を怒ったことなんて、ない」
 軋んだ声でそう言って、彼は口を噤むと再びと開かなかった。

 彼の父親――あくまで義理の、だが――の人柄は良く知っている。一度も声を荒げたことなどないかのような、柔和な声の、優しい人だ。ただ、優しすぎた。父親として、いや、それ以前に親という生き物として、彼は優しすぎたのだ。
 けれど、彼の苛立ちの原因は、そんな単純なものではない。きっと彼は、自分に苛立っているのだ。それでもなお、父に「父」としての行動を期待してしまう自分自身に。
「父親」ではなく、「あの人」とでも呼べたはずなのだ。結局、誰よりも彼こそが『家族』という檻に閉じ込められているのである。そのことに彼は気付いていて、けれど、気付いていないふりをしている。

 与えられる虚偽の関係に彼が甘んじている限り、何も変えることはできない。


 小さく、遠くで雷が鳴る。雨はまだ降り続いているが、次第に弱くなっているようだ。
 黙りこんだまま動かない彼を見て、苦笑とともに息を漏らした。
「……要は、お父さんを怒らせたいって訳」
 ひとつ、手伝ってやろう、という気分になったのだ。長い付き合いで、おそらく彼の心情をここまで理解したのは、今日が初めてだろうから。
「そういう訳じゃない」
「そういう訳だろ」
 彼の反論は、聞かない。いつだって彼は、そうやって自分に嘘を吐いてきたのだから。
「な、今日俺の家泊まってけよ。家出して無断外泊すれば、流石にお前のお父さんだって怒るだろ」
「いや、それはできない……父が心配する」
「アホかお前、心配させるんだよ」
そう言って笑うと、彼は押し黙った。瞳が揺れている。押し切るまで、あと一押しだ。彼が何か言う前に、立ち上がる。
「夕飯なら、うどんあるから、今温めるよ。あとは適当にシャワー浴びて、まぁ布団床に敷いて寝ればいいだろ」
キッチンに向かいながら、畳み掛けるように言った。そして、コンロに置きっぱなしだった鍋を火にかける。
彼はしばらく黙っていた。たっぷり一分ほど沈黙し続け、ようやく立ち上がると、言った。
「……俺は、うどんは熱いのが好みだ」
 無表情な顔、無感情な声。ようやくいつもの彼が帰ってきた。思わず、笑みが零れた。
「はいよ」

 演奏終了。何故だか、そんな言葉が頭をよぎった。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 翌朝。六時ごろに一旦家に帰った彼と、通学路にある交差点で再会した。
「どうだった?」
 挨拶もなしに尋ねるが、彼は黙ったままだ。訝しく思い目を細めると、彼は仏頂面でその頬を指差した。
 左頬だけが、やけに赤い。
「……あぁ、そっか」
 それだけで、理解した。彼はどこか恥ずかしそうに目を逸らすと、いいから行くぞ、と言って先に歩き出した。自転車から降りてその後を追いながら、自然と笑みが零れた。

 彼がずっと演奏してきた「沈黙の音楽」は、無事終了できたのだろうか。そんなことを、考えながら。

 雨雲は、すっかり去っていた

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