リーズン トゥ プレイ


 カチ、カチとスイッチを二つ押せば、部屋の電気は全て消えて、橙の光の中に机と椅子の影が浮かび上がる。振り返って確認すると、部屋の真中、最も大きな黒い影の中に、赤を反射して橙にほんのりと光る白鍵に気づく。ピアノの蓋を閉め忘れていたようだ。赤いビロードのカバーを鍵盤の上に優しく被せ、そっと重い蓋を閉めた。そうして、部屋の中の色彩は橙と黒だけになる。それを確認して、ガラガラと扉を開けると、外に出た。
 オレンジに染め上げられた廊下。今、この時間、校内の全てが橙と黒のコントラストで埋め尽くされる。その中に佇む、黒い色彩。俯いて本に目を落としていたその影は、近づくと顔を上げた。不健康な白い顔も、今は朱が差しているように見える。

「……遅い」
 こちらを見上げる視線は、鋭い。不機嫌そう、といっても、それがいつもだから気にすることはない。じゃあ待たなくてもいいのに、と呟いて廊下に投げておいた鞄を拾い上げ、歩き出した。これもいつものことだから、答える声はない。読んでいた本を鞄に仕舞うと、彼は後ろに黙ってついてくる。これもいつものこと。こうして、階段を下りて靴を履いて、外に出て、家の近くの交差点までずっと一緒に歩く。それも、いつものことだ。一体何年続いてきたのか分からない。歳の数だけ、といってもあながち間違っていないかもしれない。それぐらい自然のことで、今更取り立てて気にすることでもなかった。
 
 三笠良乃と常葉和巳はいわゆる幼馴染だ。初めて会ったのは保育園の時。その保育園は教会が開いていたもので、和巳はそこの息子だった。一方の良乃はというと、両親がキリスト教徒だったという訳でもなく、只単に家から近く安いから、という理由だけで入園させられたらしい。実際良乃の家は、盆には墓参りをし、暮にはクリスマスを祝う一般の中流家庭だ。だから良乃自身も、宗教について深く意識したことはない。和巳の方は、親から教えられていたのだろうか、子どもにしてはやけに詳しかった覚えがある。しかし、良乃とは違った理由で、彼もあまり宗教に興味はないらしかった。
 仲がよくなった理由は覚えていない。気がつくと、行動を共にしていた。全くと言っていいほど共通点の見出せない性格をしているのだが、何か通じ合うものでもあったのだろうか。覚えていないのだから、きっと他愛もない理由なのだろう。とにかく、大した理由も無く、今まで付き合ってきたということだけが、確かな事実だった。
さほど大きくない町には小学校が三つと中学校が一つ。だから中学校までは、見知った顔がいくつもあった。けれども、二人揃って町に一つしかない高校に進むとは思っていなかった。別に意図的にそうしたわけではない。揃って合格したとき、良乃はまたか、と溜息をついたほどだった。和巳の方は、相変わらずの仏頂面だったのだが。
 

 交差点が見える橋の上に来る頃には、もう日はすっかり落ちて、対向車線の車のライトが眩しく光っていた。徒歩で通学している和巳に合わせて、良乃は自転車を押して歩く。どうしてそこまでして、と時々自分でも疑問に思うのだが、いつも和巳の方が待っているのだから置いていくわけにもいかない。どうして待っているのかと何度か尋ねたこともあったのだが、和巳はどうしても口を割ろうとしないので、良乃はもう訊くこともしなくなっていた。

「お前さぁ、」
 ずっと黙って歩いてきたのだが、交差点が近づいてきたので良乃は口を開く。
「こんなに遅くなっていいわけ?」
 周りを見回して、そう尋ねる。秋になって、すっかり日が落ちるのが早くなった。夏頃まではこの時間ならまだ明るかったのだが、同じ時間でも日が落ちてしまうと随分遅くまで居残っていたような気分になる。
「お父さんが心配すると思うんだけど」
 高校生の男に向かって言う言葉でもないと思ったが、彼の場合は少し事情が違う。
 和巳の家はいわゆる父子家庭だ。父一人子一人。それも、普通の家庭とは事情が違う。良乃は詳しいことを聞いていはいないが、どうにも実父ではないらしい。つまり和巳は養子ということになる。彼の養父の職業は牧師だから、それが何か関係あるのかもしれない。そもそも、彼の父の教会が開いている保育園に通っていたことが、彼と会った理由でもあるのだが。
「……まぁ、心配はしているだろうな」
 案の定、和巳は首肯する。良乃から見ても、彼の父が彼のことを随分心配しているらしいことはありありと分かる。まるで、貴重な預かり物であるかのように。「実際、預かりものだからな」、と和巳自身が言うのを聞いたこともあった。
「だから俺のこと待たなきゃいいのに」
「一人で帰ってくるな、って言われたから」
「それで俺のこと待ってて遅くなってるんじゃ、本末転倒だろ」
 そう言うと、いつも同じ言葉で言い返される。
「別にお前を待ってるんじゃない。本が読みたいだけ」
 それを聞くたび、良乃は、それは流行のツンデレとかいうやつですか、と言ってやりたくなるのだが、どうせこいつには通じないだろうし、こいつの場合それが本音なのだろうと思ってやめる。授業が終わってから約二時間。毎日図書館に通い詰めて本を読んでいるのだから、確かに良乃を待つため時間を潰しているというレベルではないだろう。
 
 それも、ずっと前から続いていることだ。良乃は回想する。小学校高学年の頃からだろうか。家にあるアップライトピアノでは物足りなくなって、学校に残ってグランドピアノを弾くようになったのは。別にピアニストになりたい訳ではなかったが、ピアノを弾くことは好きだった。高校生になった今でも、レッスンに通っているほどだ。もちろん家でも弾くが、やはりグランドピアノのタッチには劣る。それで、学校の空いている音楽室を使わせてもらうことにしたのだ。高校生になってからも、オーケストラ部が使っていない第二音楽室を使っている。
それを、小学生のときからずっと、和巳は待っているようになった。良乃のほうは、まさか高校生になってまでもそれが続くとは思っていなかったのだが。

「まぁ何でもいいけどさ、怒られない?」
「…………いや」
 尋ねると、和巳は小さく首を横に振った。
「怒りはしない」
「ふぅん、やっぱ優しいな、お前のお父さん」
 そう適当に相槌を打つと、和巳はふっと目を細める。それは、皮肉の笑みのように見えた。
「あぁ。父は優しい。……でも、それだけだ」
 

 時々、彼が『父』と言う時。良乃はそれが誰なのか分からなくなる。それは、彼の養父なのか。それとも、キリスト教における万物の主なのか。和巳ならありえる。幼い頃からキリスト教の教義を聞かされて育った彼だ。それが信仰心から来るのか、皮肉から来るのか、その違いがあったとしても神を『父』と呼んでおかしいことはない。
 
 優しくて、でも、それだけ。神様もそうだ。多分神様は優しいのだろうけど、でもそれだけで、何かをしてくれる訳ではない。
 

 ふと、その言葉に、ある音楽家の名前を思い出す。
「なにそれ、お前のお父さん、ツェルニー?」
「……は?」
 訳が分からない、と言いたげな顔をされる。和巳は音楽のことは全く分からない。というか、興味が全くないらしい。そう知りつつも、音楽のこととなると雄弁になる良乃はツェルニーについて語る。
「いや、ツェルニーって音楽家なんだけどさ。お前ショパ   ンは知ってるだろ? あのショパンが、ツェルニーを指して言ったんだよ。『彼はいい人です。でも、それだけです』って」
「ふーん」
「まぁ、ツェルニーって九百曲ぐらい作曲したんだけどさ……その大半が、今、三十番とか四十番とか言われてる練習曲ばっかりなんだよな。確かにあの練習曲はすごい指の訓練になるけど、でも曲としてはパッとしないって言われてる。まー俺はそんなに嫌いじゃないけど」
「……まぁ、なんとなく言いたいことは分かった」
 やはり全く興味がない話は退屈なのだろう。まだ話を続けようとしていた良乃は、遮られて口を閉じた。まぁ、実際もう交差点まで来ていたから、これ以上話を続けることはできなかったのだが。
「……まぁとにかく、どうでもいいけど、心配かけないほうがいいぞ」
「…………分かった」
 そう言って、良乃は信号が青になったほうの横断歩道を渡った。振り返ることも別れの挨拶をすることもなかった。どうせ明日も会うのだから。

 一番言いたかったことを、言いそびれてしまった。いや、たいしたことではなかったのだが。
(ツェルニー、本当は一番好きなんだけどな)
 
 かの大作家ベートーヴェンの弟子であったツェルニー。彼の作った練習曲は、大半がそのベートーヴェンの偉大なるソナタを弾きこなすために特化された練習曲だ。彼の作った譜面のほとんどは、びっしりと規則正しく並べられた音符で埋め尽くされている。あまりに真直ぐで、生真面目すぎる。でも、そういうのは、嫌いじゃなかった。彼の練習曲を敬遠する人が多いから、誰にも言ったことはないのだけれど。
 
 毎回欠かさず弾いているメロディーが頭の中で流れ出す。家に帰ったらもう一度それだけ弾こう。そう思って、自転車にまたがると、家路を急いだ。

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