次の日。秋の天候は変わりやすいもので、昨日はあんなに晴れ渡っていた空も今朝は雲に厚く覆われており、昼が近くなる頃には雨も降り出した。やはり天気が悪いと気分がいいものではない。良乃は少し憂鬱な気分で渡り廊下を歩く。
 憂鬱な気分の原因は天気だけではなかった。実は、課題の調べ物が終わっていなかったのである。提出期限は今日の放課後までだった。しかし、放課後はピアノが弾きたい。だから、昼休みのうちに終わらせてしまおうという算段である。しかし、普段から全く読書をしない良乃にとって、図書館に行くという事は、もうそれだけで気が滅入ることだった。
 
 重い扉を開けて、そっと閉める。静寂に満ちた空間。放課後は自習のため利用する人が多いと聞くが、昼休みは人影もまばらだ。というか、ほとんどない。だから、逆に誰がいるのかはっきり見える。
(……やっぱり、居た)
 流石にクラスまでは一緒ではないし、学校で一緒に行動することもないから知らなかったのだが、予想はしていた。しかし、あまりに予想通り過ぎて、良乃は思わず苦笑する。一番奥の机の、一番隅。そこに、和巳の姿があった。まだ昼休みは始まったばかりだ。自分は調べ物のために早弁したが、彼は昼食はどうしたのだろう。もしかしたら食べていないのだろうか。
 
 なんとなく、声をかけてみようと、そう思った。足音を立てないように近づくと、向かいの席に座る。それでも和巳は顔を上げない。だから、小声で話しかける。
「お前、昼も来てるわけ?」
「…………」
 その声に、驚いた素振りも見せずに和巳は本から少しだけ顔を上げると、小さく頷いてまた本に目を落とした。こいつは本を読んでいるときはいつもそうだ。だから構わずに、質問を続ける。
「何読んでんの?」
「……見れば分かるだろ」
「つぁら、とすと……もういいや、分からないから」
 また良乃とは無縁なものを読んでいるようだ。まぁ、小学生のうちに旧約・新約聖書を読破していたような奴だから、良乃には理解できなくて当然なのだろうが。
「お前、最近歴史物読んでたんじゃなかったっけ?」
「歴史書の棚は読み終わった。だから今は、哲学」
 
 どうやら、またやっているらしい。図書館の本を片っ端から読破していく。小学生のときから全く変わらない、彼の最早異常と言っても良い癖だ。そうやって、図書館の本全てを読破してしまったとも噂で聞いた。まさか無理だろう、と思うのだが、和巳の場合否定できないのが怖い。
 
 呆れてしまって、良乃はまた苦笑を浮かべる。そして、何気なく呟いた。
「なんでそんなに本なんて読むんだか」
「……本を読む理由か?」
 すると、先ほどまでほぼ無反応だった和巳が、本から完全に顔を上げた。そして、良乃を真直ぐに見据える。
 良乃はそういう時、微妙に目を逸らしてしまう。本当に、時々しかないのだが、彼のそういう風に良乃を見る目は本当に濁りが無く真直ぐで、だからこそ射抜かれるような居た堪れなさを感じるのだ。嫌いなのではない。真直ぐなものは、好きだ。ただ、それは多分憧れのようなものなのだ。自分が持っていないものに対する憧憬。そして憧憬はいつでも、反発と背中合わせのものだから。
 和巳は閉じた本で、良乃を指す。

「お前がピアノを弾く理由と同じだ」
 
 その言葉は、小さな声で発せられた。しかし、静寂の中でそれは音高く良乃の耳朶を打ち、脳を震わせた。
 目を丸くしてしまい、慌てて取り繕うように笑った。
「な……なんだよそれ、訳わかんねぇの」
 けれど、和巳の表情は真剣そのものだった。そもそも、こいつは冗談を言うようなやつではない。それを思い出して、良乃の顔から笑みが消える。
 立ち上がった。そうだ、昼休みは短い。こんな無駄な話をしている場合ではないのだ。
「あー……俺、調べ物あるから」
「ん、そうか」
 そそくさと席を立つ。そして足早に書架へと向かった。並ぶ本のタイトルが頭の中を通り抜けていく。どの本を探していたのだったか。思い出せない。なんだった?
 
 ピアノを、弾く、理由。そんなの、好きだから、に決まっているだろう。けれど、そんな理由ではない気がした。和巳がわざわざそう言い表したのには、他に何か理由があるはずだった。好きなら、好きだからだとはっきり言えばよいのだから。
 しかし、好きだから、という以外にたいした理由がないのも確かで。そう思うと、突然ピアノを弾くことがどうでもいいことのように思えた。あいつは、和巳は、もっと崇高な理由で読書をしているに違いない。毎日毎日、通い詰めて、どんなときも欠かさず読書している。毎日続けているという点では同じだったが、それでもその熱心さにおいて自分は和巳に勝てないだろう。なら、一体何を指して、彼はそんな崇高な行為を自分と同じなどと言ったのだろうか。そんな風に言われるほどの強い意志を持って、ピアノを弾いていたわけでは、ないのに。
 一度疑問を持ってしまうと、瓦解するのは早い。ぐらつく足元、それに気づかなかった振りをして、本を手に取った。ほら、今日も放課後また、ピアノを弾くのだから。早く課題を終わらせないと。そう思うのだが、頭の中はある一つの疑問で埋め尽くされていた。
 
なんのために?

 
 午後もしとしとと降り続く雨は止む気配がない。授業を聞く気もなんとなく起きず、窓際の席で良乃は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
 頭の中は、昼間の出来事でいっぱいだった。だから、授業に身が入らないのだろう。いくら考えても答えが出るわけがない。自分には理由なんてないし、まして、彼が本を読む理由なんて考えても分かるはずがなかった。いや、正確には、分からないのではなく、思い出せないのだ。ずっと考えていて思い出したことなのだが、随分昔に自分は同じ質問をしていたはずなのだ。ただ、そのことを思い出したはいいものの、肝心の答えを覚えていないのだった。
 雨はしとしとと、規則的に降り続けている。窓を伝う水滴を目で追っているうちに、だんだん良乃はまどろみ始めた。



 ――『ねぇ、カズ』
『なに?』
 小さな子どもが読むには少し分厚すぎる本から、少年は顔を上げる。
『なんでカズはそんなに本をよむのが好きなの?』
 絵本に飽きてしまったのか、その少年は床に本を投げ捨てるとおもちゃの鍵盤を叩いていた。
 カズと呼ばれた少年はにっこりと笑う。
『あのねぇ、神様を探してるの』
『かみさま?』
『うん、神様』
 不思議そうに首を傾ける少年。カズと呼ばれた少年は続ける。
『あのね、お父さんが言ってたんだけど、僕の本当のお父さんは別のとこにいるから、今のお父さんが僕のこと預かってるんだって。だから、神様をね、本当のお父さんだと思いなさいって』
『……じゃあ、かみさまは本の中にいるの?』
『……わかんない。でも』
少し困ったような顔で、しばらく口ごもる。パタン、と静かに本が閉じた。
『せいしょの中の神様は、僕の神様じゃないみたいだから。だから、ほかの本に書いてあるかもしれないって、探してるの』
『ふーん、よくわかんないや』
『うん、でもね、みんなそうなんだって、お父さん言ってた』
 彼はもう一度、顔いっぱい、幸せそうに笑った。
『だからきっと、ヨシもね――


――「……さ、三笠!」
「……っ!」
 突然名前を呼ばれて、跳ね起きる。教師がこちらを睨んでいた。どうやら寝ていたらしい。すいません、と小さく呟いて、良乃は俯いた。
 今、なんの夢を見ていた? おぼろげな記憶。霞がかかったような夢だった。覚えている、あれは、確か小学生のとき。場所は、どこだ? あの頃よく行っていた場所――。

「……そう、だ」
 あの日の、会話だ。どうして、本を読むのか。そう尋ねた日のことだった。何と答えていた? 今なら思い出せる。確かに和巳は、そう言った。
(神様を……見つける?)
 それだけでは、意味が分からない。確か続きがあったはずだ。それが、思い出せない。そこまでは、夢に見なかった。あと少し、少しなのに。
 
 終業を告げる鐘の音。それが思考を遮る。これで、今日の授業は終わりだ。ピアノを、弾きに行こう。行かなくては。そう思うのだが、思い出しかけた答えが頭に引っかかって動けない。それと同時に、頭の中でいつものメロディーが流れ出す。集中できない。しかし、今すぐピアノを弾けと追い立てるかのように、そのメロディーは止まらなかった。
 その時だった。

「良乃」
 
名前を、呼ばれた。
そうやって、名字でなく名前で呼ぶ人物は、この学校ではたった一人だ。

「……なんで、お前」
 顔を上げると、目の前にはいつもの仏頂面。しかし、この顔を、この教室で見るのは初めてだ。そもそも、家に帰るとき以外、学校で会うことなどほとんどなかったのだから。
「来ちゃ悪いか」
「いや……珍しいこともあるもんだ、と」
 呟いて、立ち上がる。普通でない事態に、どう反応していいか分からない。しかし、当の和巳本人は、いたってなんでもないことかのように平然としていた。
「なに、なんか用?」
 取り合えずそう尋ねる。よほどの用でもない限り、こいつが来ることはないだろうと思ったからだ。
 良乃より背の低い和巳は、顔を上げて良乃の目を見た。なんだか、いつもより機嫌がよさそうに見える。それも、
ひどく珍しいことで、良乃の戸惑いは増すばかりだった。
 和巳はこれもなんでもないことのように言った。
「お前のピアノが聴いてみたくなった」
「…………はい?」
「その、お前の好きなツェルニーの曲。聴いてみたい」
 覚えていたのか、と少し驚いたが、それよりも驚くべきことを彼が言ったことに気がつくと、良乃は慌てた。
「好きって……いつ、俺そんなこと言った?」
 確か、好きとははっきり言っていなかったはずだ。それを聞くと、和巳は薄っすらと笑った。いつもの笑い方とは違う、からかうような、どこか悪戯っぽい笑みだ。おそらく、他の人から見たらその違いは分からないのだろうが。
「お前は本当に好きなものは、『嫌いじゃない』って言うからな」
「…………そうだっけ?」
「そうだよ」
そうなのかも知れない。自分の知らなかった自分の癖を指摘されて、気まずさに目を泳がせる。和巳はにやにやと笑っている。それを軽くにらみつけたが、おそらく頬が赤いだろう今の自分では全く効果がなかった。
「……分かったよ、行くぞ?」
「あぁ」
 乱暴に椅子を仕舞って、教室を出た。その後ろを和巳がついてくる。それはいつもと変わらないのに、向かう先はいつもとあまりに違う。なんだか不思議だった。これだけ長く付き合ってきて、自分の演奏を聞かせるのはこれが初めてなのだから。
 外を見た。雨は未だ降っている。だが少し、小降りになっている、気がした。


「……始めに言っとくけど、つまんないぞ。短いし」
「あぁ」
「同じエチュードでもショパンのとは大違いだからな」
「ショパンとか、聴かないから分からない」
「それと、俺、そんなに上手くないからな」
「いいから弾けよ」
 誰もいない音楽室。グランドピアノの蓋を開け、鍵盤の前に座り、一番前の座席に腰掛けた和巳に振り返って良乃は何度もそう確認を取った。焦れたように和巳が弾けと促す。それでも決心がつかないのか、良乃はしばらく楽譜を見つめると、呟いた。
「一応言っておくけど、曲はツェルニー四十番練習曲の26な」
「まぁ、言われても良く分からないんだけどな」
「一応だよ」
「……分かった。分かったから、早く弾け」
 無碍なくそう言われて、仕方なく良乃は覚悟を決めた。こんなに緊張するものだとは思わなかった。息を深く吸う。一度目を閉じる。頭の中でメロディを思い描く。いつものそれだ。いつも、弾いているのだから。もう楽譜など見なくてもいいくらいに。だから、大丈夫だ。

息を吐いた。指をそっと鍵盤に置く。そして、息を鋭く吸い込んだ。

 音高く鳴り響く軽やかなパッセージ。鍵盤の上を指が踊る。イ長調、八分の六拍子の優雅なリズムに乗せて、十九連符の音階が広がるように響き渡る。音は駆け上がり、駆け下り、また駆け上がる。テンポが変わったかのように素早い二十三連符。指はいつものように自由に歌を奏でた。もう緊張なんて忘れている。音楽が身体の底から湧き出でてくるかのように。もう、観客がいることなど気にならなかった。曲のクライマックス。半音階で舞い上り、転がるように下りてきて、軽やかなトリル。そして一気に駆け下り低音、ピアニッシモ。
ラストはフォルテッシモ。和音をたっぷりと響かせ、切った。部屋中に、余韻が響く。

 一瞬の間を置いて、乾いた音が鳴り響いた。拍手だった。見れば、和巳は満足そうな顔で拍手していた。良乃は物凄く恥ずかしくなって俯く。ひとしきり拍手すると、和巳はその様子を見て笑った。そして言う。
「な、言っただろ。お前と同じ理由だって」
「…………言われても、わかんねぇんだけど、それ」
 やっぱり覚えてないのか、と和巳は呟いた。そして、これだけ言えば思い出すだろ、とも言う。
「だから、神様を探してるんだよ」
「それは覚えてる、それの意味が、わかんないんだって」
「そのまんまだろ」
 和巳はピアノを指差した。いや、ピアノではなく、そこにおいてある楽譜だった。
「お前にとっては、その曲がそうなんだろ。神様ってのが分かりにくいなら、拠り所、でもいい」
「この、曲……? 拠り所?」
「そう。拠り所だ。それが神様。父が言ってたんだよ。神様ってのは、要するに拠り所なんだ、って」
 
それ、だった。それが確か、答えの続きだったのだ。ようやく、思い出す。
「誰でも、皆、自分の神様を探してる――」
「……やっと、思い出したか」
 和巳は溜息をつくが、その顔は実に嬉しそうだった。
 そう、確かに彼は昔同じくらい嬉しそうな顔でそう言ったのだった。
 
 神様。優しいけれど、それだけの存在。だけれども、助けが欲しいとき、何もしてくれなくても、寄りかかることは、できる。そういう存在。そうか、それが、理由だったのか。それが自分にとっては、ピアノを弾く、ツェルニーの曲を弾く、それだったということ、それだけで。

「……お前は」
「ん?」
「お前は、もう見つけたのか?」
「……そうだな」
 和巳は少し首を傾げると、そのままの表情で言った。
「案外、俺の神様は本の外にいるのかもしれないよ」
 そう言って、彼は外を見た。つられて、良乃も外を見る。


 雨は、止んでいた。少なくなった雲の隙間。そこから一条の光が差し込むのを、はっきりと、見た。 


...fin

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