230万光年の孤独

「ウォーカーは、どこの生まれなんですか?」
 カタン、とカップをソーサーに置く微かな音。明るい蜂蜜色の紅茶が揺れて光を反射する。
「生まれ?」
 ウォーカーも同じようにカップを置いて尋ねた。少し大きい音がした。ジズがするように上品な置き方は、まだウォーカーにはできないようだ。それを咎められたことはないが、密かにウォーカーは気にしている。
「えぇ…宇宙のどこか、ということは分かるんですけどね。もしその場所が地球から見えるなら、ぜひ見てみたいと思って」
 夕食をとり始める頃には赤かった空も、もうすっかり群青色になっていた。月はない。そのせいか、いつもより星は明るく、多く見えるように思えた。
「生まれ、か…確か地球では、アンドロメダ銀河って呼ばれてたはずだけど」
 窓の外の星空を見上げる。かつてこの目で見てきた美しい、様々な色彩、姿を持つ星々も、地上から見れば単なる光に過ぎなかった。
「たぶん肉眼でも見えると思うんだけど……よく分からないな」
 自分の故郷がどのように見えるのか、ウォーカーは知らない。
 そもそも故郷と呼べるのかも定かではない。生まれたときのことなど覚えているはずも無く、家族がいるのかすら分からなかった。一番古い記憶でさえ、宇宙を彷徨っている記憶なのだ。懐かしく振り返ることも、戻りたいと思ったことも、一度も無かった。今ジズにそう聞かれるまで、考えたことも無かったのだ。
「星のことは良く分からないんですが…その、目で見えるということは、どれぐらい近いんですか?」
 ジズは少し気まずそうに尋ねる。よく分からない、ということを気にしているのだろう。ウォーカーは彼が理解し易いだろう言葉を探した。しかし見つからなかった。近いのか、遠いのか、そういった基準は彼と自分とではあまりにも違う。その違いをまだ理解できていない。気まずく思うべきは彼ではない、自分のほうだ。
 結局ウォーカーには、具体的な様でいて酷く抽象的な数字でもって答えることしかできない。
「近いのか遠いのかは良く分からないけど、230万光年くらい。1光年がだいたい9万5千メートルだから……約2185億キロメートル、かな」
 そんな数字では何も分からない。必要なのは客観ではない。あくまで主観なのだから。
 案の定、ジズは首をかしげて苦笑する。
「それは……あまりに遠すぎて、良く分かりませんね」
「うーん……光が一番速く進むって事は分かるよね?」
「はい」
「その光の速さで、230万年かかるってことだよ」
 ジズはそれを聞くと、考え込んでしまった。どれほどの年数なのか、想像しているのかもしれない。おそらく想像もつかないだろう。自分にも分からないのだから。距離の経過、時間の経過を数えることなどしなかった。意味を成さなかったからだ。
 どこまでも続く広大な常夜。距離も時間もない、暗い、暗い空間。全ての概念は意味を失う。そもそも時間というもの自体、人間が生み出した概念なのだから。それが測れるのはせいぜい彼らの寿命程度だ。
 ジズは顔を上げた。その表情は、どちらかといえば負の感情を表している。しかし、その感情をなんと呼べばいいのか、ウォーカーには分からない。
「……ウォーカーは」
 ジズが呟く。小さな声。視線は目の前のカップに注がれたまま。
「そんなに長い間、ひとりで旅をしてきたんですか?」
「……え?」
 
 言われて、初めて気づく。
 230万年。いや、実際にはもっと、自分は生きてきたのだということ。
 その途方もない年数を生きてなお、未だ死ぬこともないだろう、ということ。
(残された時間が後何年なのかも分からない。もしそれがさらに長い年数なのだとしたら。この星よりも長い年数なのだとしたら)

 ジズは笑った。それを見て理解する。その表情が示すものは、寂しさだ。
「私だったら、気が触れてしまいそうです」
 指を祈るように顔の前で組み、彼は呟く。
「今では……一日だって、ひとりでは」
 彼の微笑は、その寂しさを思ってのものではなかった。
 彼の感じているそれは、今発露した感情の隔たりによるものだ。
 自分が感じる寂しさにも、相手は耐えられてしまうのかもしれない。理解しあえない、その絶望。今は小さなそれは、いつか大きな溝となって互いの間に横たわるだろう。

 そんなことに、なって欲しくはない。
 それに、今なら理解できる。

「いや……多分、僕ももう無理だ」
 その言葉に、ジズは伏せていた目を開く。
「僕ももう……ひとりじゃ、耐え切れない」
 寂しさは絶対ではない。それは常に相対の感情だ。
 傍にいるべき人、いてほしい人がいないという、否定を条件とした感情。
 今まで、ひとりで平気だった、というのは正しくない。
 ひとりでいること以外を知らなかっただけだ。
 知らなければ、寂しさなど分からない。
 そして、誰かが傍にいてくれる、その温もりを知ってしまった今、寂しさに耐える術を、自分は持たない。
「だから…その。理解できない、とは思わないでほしいな」
「……あ、」
 少し惚けたような顔でウォーカーの顔を見ていたジズは、その言葉に顔を綻ばせた。
「いや、違うんです、そうじゃなくて」
「え」
「ただ、貴方の故郷にいけたらよかったのに、と思って……」


 連れていって、あげようか、と


「無理な話ですね、馬鹿なことを言って、すみません」

 思わず口をついて言ってしまいそうだった。
「…そうだね、少し遠すぎるし、それに」
 それは出来ない。彼は自分とは違う。この場所には、彼を必要な人が未だいる。彼が必要としている人も、自分だけでは、ない。
 そして、何より。
「僕も、ここが好きだし」
 まだ離れるつもりはない。少なくとも、彼については寿命を心配する必要はないのだ。
「だから、遠い未来、もしここを離れなくちゃいけないようなことがあったら……その時こそ、僕の故郷に連れていってあげるよ」
 微笑む。それこそ遠い未来の話だ。御伽噺のほうが、まだ真実味がある。そんなところに、彼を連れていけるはずがない。

 それでも、230万光年の孤独も、二人でなら耐えられる気がした。


 ジズは微笑んだ。今度こそうれしそうな顔で。
 そして彼はティーポットを手に取ると、立ち上がる。
「お茶が冷めてしまいましたね。今、おかわり持ってきますから」
 その背中に、声をかける。
「ジズ」
「はい?」
 確か、どこかの部屋に望遠鏡があったはずだ。
 例え行くことができなくても。思いを馳せることぐらい、してもいいだろう。
 今宵は良く晴れている。もしかしたら、肉眼でも見えるかもしれない。
「星でも、見にいこっか?」
「……そうですね、」
 
 彼はあでやかに微笑んだ。

「見に行きましょうか。貴方が生まれた頃の光を」


...fin

 

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