missing you
「……は、働く?」

玄関に繋がるホールに突っ立って、ジズはぽかんと口を開けた。
対するウォーカーは、にっこりと笑って告げる。

「うん。僕、働くことにしたんだ」


時刻は、朝の7時。ウォーカーは、昨晩から今まで出かけていた。行き先は、町外れの天文台だ。なんでも、彗星が接近するから、とのことだったのだが、肉眼で見える流れ星ならまだしも、わざわざ望遠鏡を使ってまでして見たいともジズは思わず、ついていかなかったのだった。
ウォーカーは今までも時々そうやって天文台に出かけていくことがあったので、特段気にも留めていなかったのだが。

「なんでまた、そんな、急に…?」

ウォーカーの鞄を受け取りながら、ジズは最もな疑問を口にする。
徹夜してきたらしいウォーカーは、一つ欠伸をして答えた。

「いや、昨日さ、天文台で研究者だって人と会ってね。話してたら意気投合しちゃってさ。そしたら、その人が働いてる大学で、天文学の講師を募集してるからって誘われて……まぁ、受けてみようかなって」

彼は事も無げにそう言うが、ジズは内心驚いていた。大学に通った経験はないから分からないが、そこで教鞭をとるというのは簡単なことではないだろう。

「それは…貴方、すごいですね、ウォーカー」

感嘆してそう言うと、ウォーカーは照れたように頬を掻いた。

「まぁ、外部講師扱いだから、取りあえず火曜日と金曜日にってことなんだけどね」

正職員じゃないよ、と謙遜して彼は言うが、ジズにとってはどちらも等しく凄いことに思えた。実際、彼の知識なら、教授になることも可能だろうとも思った。


朝食をとらずに少し寝るという彼について、鞄を部屋に運ぶ。部屋の前まで来ると、ウォーカーはありがとう、と言って鞄を受け取った。

「服、洗濯しておきましょうか?」
「んー…起きたらお風呂入るから、その時だすよ。ありがと」
「分かりました。じゃあ、お風呂沸かしておきますね」

そう言うと、何故かウォーカーはクスクスと笑い出した。ジズは怪訝な顔でそれを見る。
ウォーカーは笑いを含んだ声で言った。

「…いや、これから僕がちゃんと仕事に就いたら、なんか、ジズ奥さんみたいだなーって」
「え……って、何を言ってるんですか貴方は!!」

ジズはワンテンポ遅れて叫んだ。照れ隠しかすぐ目を逸らしたが、顔が赤いのは隠しきれていない。
ウォーカーは再びクスリと笑って、それじゃあお休み、と戸を閉めた。

後に残されたジズは、はぁ、と溜め息をついた。

喜ばしいことの筈なのに、何故だか、喜べない自分がいた。
…そうして、すぐに週は明け。ウォーカーの初出勤である火曜日の朝が来た。

「ウォーカー、ちゃんとハンカチとティッシュ持ちました?」
「持ったよ。というかジズ、お母さんじゃないんだから…」

ウォーカーは苦笑するが、ジズは気が気でないらしい。他にも幾つか確認されたので、ウォーカーは逐一答えなければならなかった。

「はい、全部答えたよ!これで安心した?」
「………まぁ、一応は」

まだ不満そうに言うジズ。そんなに自分は頼りないのだろうか、とウォーカーは苦笑いした。

「じゃ、行ってくるね」
ドアに手をかけると、
「……あ!ウォーカー、」
呼び止められた。

「何?」
「あ、あの……コレ」

ジズが差し出したのは、布に包まれた四角い箱。

「コレ、って?」
「……お弁当、です」

ジズは、はにかみながらそう言った。どうやら作ってくれたらしい。ウォーカーは驚きと喜びの入り混じった声で言った。

「わぁ、ありがとうジズ!」
「いえ、大したことでは…」
「ホントに奥さんみたいだよ!」
「………一言余計です」

睨まれてしまった。ウォーカーは頭を掻く。それから、弁当を大切に鞄に閉まった。

「それじゃ、行ってくるね!」
「はい…気をつけて下さいね」

心底心配そうに言うジズに、頷いて微笑む。手を振ると、ジズもようやく小さく笑って手を振った。

ドアが開いて、ウォーカーが外に出て、それからドアは閉まった。
誰もいない玄関に立ち尽くして、ジズは、言えなかった言葉を呟いた。

「なるべく、早く帰ってきて下さい…ウォーカー」


それからの午前中は、起きてきた白とロッソと朝食を食べて、ロッソと洗濯物を干したり白とチェスをしたりしているうちに、いつものように過ぎてしまった。

それでも、ジズは何だか上の空で、いつもは善戦するチェスでも、今日は何回も惨敗してしまった。

「…心配しすぎ、なんでしょうかね……」

呟きながら、鍋のスープをかき混ぜる。昼食の準備も、いつもより捗らない気がした。
一つ溜め息をして、ジズは何気なく、キッチンのドアを開いて言った。

「ウォーカー、ちょっと味見してくださ…」
「ウォカ、今居ないけど」

声に、我に帰る。ジズはハッとした。無意識に、彼の名前を呼んでいた。ドアの外を見ると、ロッソが立っている。気恥ずかしさに、ジズは俯いた。

「俺でよかったら、味見しようか?」
「あ、はい…お願いします」

そう尋ねてくるロッソに頷いて、ジズはドアから離れた。彼が何も訊かないでくれてよかった、とジズはこっそり安堵の息をついた。

ロッソはキッチンに入ってくると、スープを小皿によそって、一口飲んだ。

「………………」

そして、固まる。

「……ど、どうですか?」
その反応に、ジズは不安になって尋ねた。塩が多すぎたのだろうか。

ロッソは黙ってスープを飲み込むと、淡々と言った。

「……砂糖と塩、間違ってる」
「…………え、え!?」

今度はジズが固まる番だった。まさか、そんな初歩的なミスをするわけが。

「あー…俺、代わりに作ろっか?」

尋ねるロッソに、ジズは力無く頷くしかなかった。
開け放したままのキッチンからは、手際良く野菜を切る音が聞こえてくる。今からスープを作り直すとすると、昼食は遅くなってしまうだろう。

それもこれも皆、この訳の分からない憂鬱のせいだ。
ジズはダイニングのテーブルに顔を伏せる。憂鬱の原因は分かりすぎるほど分かっていたし、だからこそ、そんなことで落ち込んでいる自分が情けなかった。

こんな調子では、みんなに迷惑をかけてしまう。
そう思うと、目頭が熱くなってきた。いけないと思うも、それは止まりそうもなく。何かが、決壊しそうになった。
その時。


「どーした黒いの」
「わっ……!」

突然ぼふっと帽子を叩かれて、ジズは慌てて顔を上げた。
いつの間にか、ロッソが目の前に立っている。

「腹減って死にそう?」
「いえ…というか私、死んでますし」

思わずそう言い返すと、そういやそーか、と呟いて、彼は向かいの席に座った。

「……心配事?」
「…………いえ、別に」

即答は、できなかった。
それが逆に気にかかったのだろう。ロッソは首を傾げると、肘をついて言った。

「ウォカが浮気しないか心配?」
「ちょっ……違います!!」

一瞬で顔が熱くなる。そんなことは微塵も考えていなかったが、言われてみるとやけにリアルな言葉に思えた。
ロッソは無表情に言う。

「大丈夫だって、ウォカどう見ても黒いの一筋だから」
「だから違います!そんなことじゃありません!」

言ってから、ハッとした。
こちらを真っ直ぐに射抜くロッソの瞳に、目を見開く自分が映る。

ロッソは静かに言った。

「……じゃあ、どんなこと?」

沈黙が、その場を席巻した。

ジズは俯いて、下唇を噛んだ。見透かされている。何もかも。けれど、自分でも何がそんなに心配なのか分からないのだ。問われても、答えようがない。

そんなジズの様子を見て、ロッソは、再び口を開いた。

「黒いのが言いたくないなら聞かないけど」
「…………」
「じゃ、これは俺の独り言ってことで」

その前置きが、ジズに気遣いをさせまいというロッソの優しさなのだということぐらいは分かっていた。だからジズは、口を挟むことなく、ただ小さく頷いた。

ロッソは訥々と話し出した。

「離れる、ということは、一定期間であれば、必ずしも『気持ちが薄れる』ということには繋がらない、と俺は思う」

まるで何かの論文を読み上げるような口調。それが、彼を思わせる。やはり、2人は兄弟なのだ。

「逆に、その時味わった寂しさは、いかに自分の中でその存在が大きなウェイトを占めていたか、確認する指標になる」

顔をゆっくりと上げた。相変わらず無表情なロッソ。その顔に、何故か今は安心してしまう。

「寂しければ寂しいほど、相手のことが好きってこと」

そう言って、彼は手を伸ばす。

「それにな」

その手が、ぽんぽん、とジズの頭を撫でた。

「あいつも同じだと思うぞ?」

思わず、息を飲んだ。
そして、それを吐き出す前に、ロッソは立ち上がる。

「あー、そろそろスープできるわ」

その言葉に、言おうとしていた言葉は霧散した。口を開くタイミングを見失って、黙り込む。その間に、ロッソはキッチンに戻ってしまった。

ジズはその背中を見つめて、先ほどのロッソの言葉を心の中で反芻した。

何か、温かいものが、そっと心に灯った気がした。

「んじゃ、飯にするから白いの呼んできて」
「……はい」

ロッソの声に微笑んで返事をする。
それから、少しの躊躇いのあと、ジズはふと浮かんだ疑問を口にした。

「あの、ロッソさん。ひとつ訊いてもいいですか?」
「ん?」

思ったのだ。さっきの彼の言葉は、そのまま彼の思っていることなのではないかと。
何故なら、置かれた立場は、実質なんにも自分と変わっていないのだ。


「…白がいない時、ロッソさんも寂しい、ですか?」


その言葉に振り返った彼は、ほんの少し、目を丸くしているように見えた。

まるで、今まで考えたこともないというように。


「あー…あんまり、寂しいとは思わない」

ロッソは、困ったように頬を掻いた。

「でも、それは好きじゃないからじゃなくて、好きだからなんだけど…」

これじゃさっき言ったことと違うな、と彼が心底困ったように呟くので、ジズは思わず噴き出してしまった。
そんなジズを見て、ロッソも僅かに苦笑を浮かべる。

「ま、そういう『好き』もあるってことで、不問にしといて。黒いのもそのうち分かるだろ」

はぐらかされた気もしたが、ジズはそういうことなのだと思うことにした。

ただ一言、ありがとうございますと微笑んで、白を呼ぶために部屋を出た。


その晩。

3人で夕食をとっている間、ジズはずっとソワソワと落ち着かない様子だった。その意識は、明らかに玄関に向いている。

だから、ドアの開く音がして、ウォーカーの声が聞こえる前に勢いよく飛び出したジズに、ロッソと白はそれぞれ苦笑してしまった。

白は口元に手をあててひとしきり笑うと、からかうような笑みでロッソを見た。

「誰かさんも、あれくらい喜んで出迎えてくれるといいんですがね」
「あぁ、それだけどな」

ロッソはそんな白の言葉に、至極真面目な顔で答える。

「俺は今日、恋と愛の違いが分かった気がする」
「は?」

呆気にとられる白に、こっちの話、と呟いて、ロッソは再び食事を開始した。隣では、白が腑に落ちない顔をしていたが、気にしないことにする。

廊下から聞こえる、楽しそうな2人の声。どうやらやっと、食卓にいつもの灯りが灯りそうだとロッソはひとり微笑んだ。

(恋だなぁ、あっちは)




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