終焉無き幸福の絶望

時間は永遠にあるのだから、と彼は言う。


 春が訪れた森の木々は明るい黄緑の葉を芽吹かせ、薄く幼い葉は日の光を透かし眩しく揺れている。白い雲は穏やかに太陽の光を遮り、地上は柔らかい光で満たされていた。
 誘われるように窓に歩み寄ると、外へ大きく開け放つ。ふわり、白いレースのカーテンが風を抱き込んでふくらみ、光を室内へ招き入れる。ひらひら、白い花弁が数枚舞いおりて、その一枚が手のひらに落ちた。
 鳥の囀りが聞こえる。暖かい風が頬を撫でる。生命力溢れる世界は、生命を持たない自分にもその恩恵を分け与えてくれるかのようだ。

 今年で、三度目の春だ。
 目を覚まし、彼と出会ってから。

 それ以前の記憶は自分にはないから、たった三度見た中で比べることしかできないが、それでも今年の春は今までで一番美しいように思えた。
 ウォーカーは今日も散歩に行っているらしい。普段は部屋で本を読んでいることが多い彼だが、やはりこの春の風には心惹かれるものがあるのだろうか。
 帰ってきたら、お茶にしよう。そう思い立ち、ジズはキッチンへ向かう。
 春の日差しに心惹かれるのは自分も同じだ。冬の間、使うことのなかったテラス。今は日が当たって、とても心地よいのだろう。冬に植えておいた花々も、そろそろ開く頃だ。久しぶりに外でお茶が飲めると思うと、自然と顔が綻ぶ。
 昨日焼いたクッキーを皿に乗せ、ポットにお湯を注ぎ温めておく。今日はどの葉にしようか、と棚に目をやると、真新しい缶が目に入った。先日、白が街で買ってきた木苺の紅茶だ。蜂蜜を入れて飲むとおいしいんですよ、と言って、小さなはちみつのビンまで一緒に買ってきていた。なら、今日は白とロッソも誘おうか。それも悪くない。トレイの上に、缶と小ビン、そしてカップをあと2つ乗せる。
 そして、それを一旦置いておいて、ジズはテーブルクロスを手にテラスへと向かった。庭に面したそこは、家の中で一番日当たりが良い。その光の中に置かれたテーブルの上で、クロスを広げる。鮮やかな白が光を反射して、その眩しさにジズは目を細めた。
日が沈む前に、ウォーカーは帰ってくるだろう。そろそろ準備をしておいても良いかもしれない。準備が整ったら、白とロッソにも声をかけて、久しぶりに四人でお茶を飲もう。
その幸せな光景を思い描いて、ジズは微笑んだ。
その微笑と同時に、ちくりと、何かが心を刺す。


幸せ。幸福。それはいつも、不安と隣り合わせ。
いつ失われる。いつか失われる。その不安。
それは人間である限り、逃れられない不安なのだろう。
どんなに長く続く幸福も、いつかは必ず死を以って終止符を打たれるものなのだから。

けれど自分は違う。死を恐れることも、それに伴う終焉を恐れることも、ない。
ただ怖いのは、もしこの今の幸せが崩れても、自分は消えずに残り続けるだろう、こと。
目の前に続くのは長く永く、遠く霞んで見えない未来。
永遠では、ないのかもしれない。けれど限りなく、永遠に、等しい。
それが只管に怖い。
それほど永い間、彼は、自分は、互いに変わらず想い続けていられるのだろうか。
自分のことに関してならば、自信は、ある。
けれど彼は、どうなのだろうか。

飽きられてしまうのでは、ないだろうか。

それが、ただ、怖かった。


生ける者があんなにも渇望するものを手にした今、こんなもの無ければよかったと嘆くのは死せる者。
与えられなければ、その絶望は分からない。
永遠に続く幸福の、先の見えないその絶望。
いつか自分は飽きられ忘れられる。余りに永すぎる時間は、恋であろうと愛であろうと、希釈してしまうだろうから。


時間は永遠にあるのだから、と彼はいつか言った。
だから、何も心配することはないよ、とも言った。


(時間が永遠でも、想いが永遠かなんて、分からないでは、ないですか)



キィ、と、門を開ける音。
顔を上げる。後ろを向いて門を閉める見慣れた影。
彼が帰ってきたようだ。ジズはその場に立ち尽くしたまま、彼がこちらに向き直るのを見ていた。
ウォーカーはすぐにジズを見つけたらしい。どこか子供のようにも見える仕草で、大きく手を振った。
一瞬呆気に取られて、そしてジズは苦笑して小さく手を振り返す。
ウォーカーは玄関へは向かわずに、ゆっくりとテラスへと近づいてきた。
「今日は外でお茶するの?」
「……えぇ。天気が、良いですから」
声はほんの少し掠れていた。先ほどまでの想いが心の中で軋む。
ウォーカーは気づかなかったようで、そうだね、と唯頷いて上機嫌そうに今来た道を振り返る。
「まだ三度目だけど、地球の春は凄いね。一斉にいろんな生命が芽吹く」
「……そう、ですか?」
「そうだよ。君も一度見に行ってみるといい」
彼は小さな階段を登ると、テラスへと上がってくる。その服の裾についていた花弁を見つけて、ジズは指で指し示す。
「ウォーカー、裾に花弁がついていますよ」
「ん? あぁ、ほんとだ、ありがと。花がいっぱい咲いていたからね」
それは白い花弁。なんという花のものなのだろう。先ほど窓から入ってきたものと同じものに見えた。
ウォーカーはそれを摘むと、空中でぱっと放した。風に掬われたそれは、ひらひらと宙を舞って、何処かに飛び去ってしまう。
それを目で追って、彼は呟く。
「地球の四季はどれも美しいけど、やっぱり春が一番かな」
何気なく、彼は言うのだろう、そんなことを。
「きっと何度見ても、飽きないよ」

そんなことを何でもないことのように、言えてしまうのが、途方も無く羨ましくて。
そして同時に、そんなことを、自分に対しても、思ってくれているのか、と。

「……そんなに言うなら、明日にでも散歩に行きましょうか」
想いを隠して、微笑んだ。
どうせ、問うことなどできないのだから。
「いいね。良かったら、僕もご一緒するよ」
彼が笑う。いつもと同じ笑顔で、その青い瞳に自分を映す。
分かっている、きっと、問えば同じ顔で笑うのだろう。
そして惜しげもなく頷くのだ。

答えを聞くのが怖いのではない。
信じられないのは自分だけだと、知ってしまうのが怖かった。

「……あぁ、でも、そんなに急くこともないですかね」
聞けないなら、聞けないままで良かった。
この幸せが、いつか終わるものでも、良かった。
いつか飽きられてしまう日がくるとしても、この今が幸せなら、もう、それだけで身に余る幸せなのだから、と。
「時間は、永遠にあるんですから」

一瞬雲が太陽を隠して、その突然の暗さにウォーカーの表情が見えなくなった。
光が差す前に、ジズは背中を向けて戸に手をかける。
「それでは、お茶にしましょうか」
「ん。じゃ、ここで待ってるね」
背中で聞く声はいつもと変わらないものだから。
この声が、いつまでも、自分の傍にあるように、と。

(……永遠、なんて)
浅ましくも、望むのだ。
(あっても、辛いだけなのに)

パタン、と戸を閉めて。呟いた。

「…………終わるから、素晴らしいんですよ、恋は」
   

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