真夜中。
ドアを開けると、暗闇の中に灯りが灯っていた。
綺麗な楕円を描くその光は、時々ちかちかと星屑を散らす。
ジズは電灯のスイッチに伸ばしていた手を下ろした。明るい、という訳ではないが、物につかえずに歩くには十分な灯りだし、何より綺麗だったから。
「それでは、夜に隠れん坊はできませんね」
ソファーに深く腰掛けた光の持ち主に後ろから声をかける。驚く様子もなくウォーカーは振り返った。ドアの開く音で気づいていたのだろうか。彼は後ろから急に声をかけてもいつも驚かないから、背中に眼でもついているのではないかとジズは思う。
「隠れん坊?」
「えぇ。明るくて、見つかってしまいますよ」
「あぁ…そう言えばそうだね、考えたこともなかった」
そう言って、ウォーカーはくすくすと笑った。笑う拍子に、きらきらと星屑が零れる。眩しさに目を細めた。昼間も見ている筈のそれは、太陽の光にかき消されてしまっているのだろう。この光は闇の中で初めて美しく光るのだ。
ジズはそっと手を伸ばした。しかし指先が触れるか触れないかのうちに、それはほろほろと崩れるように消えてしまう。後にはもう暗闇しか残らなくて、ジズは又そっと手を下ろした。
「こんな時間にどうしたの?眠れないのかい?」
少し心配そうなウォーカーの問いかけに、曖昧に首を振った。その通りだが、心配には及ばない。
「一度目が覚めたら、なんだか目が冴えてしまって」
「幽霊とはいえ、寝ないでいいって訳じゃないんだろう?」
「大丈夫ですよ、すぐに戻りますから」
少々心配性なのだ。そう言って宥めても、まだ少し不安そうな顔をしている。そんな顔をさせるのは、本意ではない。
だからジズは彼の隣に腰掛けた。
「貴方こそ、こんな時間に何を?」
「ん、ちょっと本を」
そう言う彼の手元を覗き込めば、びっしりと細かい文字の詰まったページが見えた。また、難しい本を読んでいるらしい。目を細めたが、乏しい光の中では良く見えなかった。辛うじて読めた文字から判断するに、ラテン語らしい。それでは幾ら明るくとも、ジズには読めないのだが。
「…こんな暗い所で本を読んだら、目を悪くしますよ」
「それは大丈夫だよ、僕の目はヒトと造りが違うから」
その言葉を聞いて、あぁそう言えば彼はヒトではなかったのだなと今更思った。真っ暗でも読めるって訳じゃないんだけどね、と言って笑う彼は、余りに人間じみているから忘れてしまいそうになる。
ヒトではない、と言ってしまえば、自分もおそらくそうなのだろう。
けれど、自分の思考、嗜好、そういうものは、全て人間だったときの名残。
彼は良く似ているけど、でも違う。どこが違うのかも分からないくらい、些細なことなのだろうけれど。
「それで、何を読んでいるんですか?」
「ん?デカルトの『方法序説』だよ」
「……また、良く分からないものを」
眉をひそめると、ウォーカーは苦笑した。
「分からない、かな?」
「分かりませんよ、哲学なんて」
哲学は好きになれない。曖昧模糊とした概念は、まるでそれが全て真実であるかのように錯覚させる。どんなに自分の主義に反していても。
そうとしかジズには思えないのだ。何故ウォーカーがそんなものを好き好んで読むのか理解できない。
これは、ヒトであるないの次元ではない。単純に好みの違いだ。
「貴方のようにスラスラ読めたら面白いんでしょうけど、
生憎私には学がないもので」
「そんなに難しいものじゃないと思うんだけどね」
皮肉のように言って見せると、困ったように笑う。
それを見て微笑んで、ジズは視線を闇に落とす。
(あぁ、きっと)
彼がそんな風に哲学を愉しむことができるのは。
(自分が、確りとあるんだ、この人は)
どんな主義主張にも揺るがされない意志。
或いは、どんな主義主張を受け入れても尚自分を見失うことのない、心。
そのどちらも自分にはないもので、だからこそ自分はこの人に、惹かれる、のだが。
(私は……そこまで、強くない)
「……コギト・エルゴ・スム」
「……え?」
「我思う、ゆえに我あり、ってね。聞いた事あるでしょ?」
突然のウォーカーの呟きに、ジズは思考の海から引き戻される。
見上げると、穏やかな光。ふわふわと舞う星屑。
「ありますが……それが、何か?」
「この本に載ってるんだよ、それ」
彼は閉じた本の表紙を指先で叩いて示した。書いてある文字はやはりラテン語。ならば、先ほどの言葉もラテン語か。
「どういう意味か、知ってる?」
「…言葉通りの意味では?」
尋ねると、ウォーカーは首をゆっくり横に振った。しかしその口元は綻んでいるように見える。
「ちゃんと言うならね、自分を含むこの世界が全て虚偽だったとしても、そう考える自分がいること、それは真実である、って意味なんだ」
噛んで含めるように紡がれた言葉を、ゆっくり頭の中で反芻する。
「世界が、偽物だったとしても?」
「そう。偽物かもしれないと疑う自分は、確かに存在するから」
まるで、自分のことを指しているような、言葉。
いや、考えてみれば、自分が存在している証明など、それだけで。
このまま闇に溶けて何も考えなくなってしまえば、意識など手放してしまえば、
それは消滅と同義で。
「……怖い、ですね」
「………ん?」
自分を抱くかのように、腕を緩く組んで。
「自分が存在していると確かに証明できるのが、自分だけだなんて」
もし誰も自分を見つけられなくなったら。有り得ない話ではない。幽霊であるこの身は、誰の目にも触れない姿にだってなれる。
もし、彼が自分を見つけられなくなったら。
その時自我があったとしても。
「考える自分」があったとしても。
存在しているといえるのだろうか?
「自分だけ、じゃ心許ないかい?」
優しい声。優しい笑み。
この人は、あぁ、時々そうやって何もかも悟ったような顔で笑う。
自分などよりずっと遠くを見る目で笑う。
「僕は、そうするしかなかったからね」
「え?」
ゆっくりと本の表紙の上でリズムを刻む指先。彼の愛する音楽と同じテンポの四つ打ちのリズム。
「ほら、僕は生まれた時から宇宙でひとりきりだったから。他の生命体がいる星に着くまで結構かかったし…まぁ、しばらくひとりだったんだよ、ずっと」
「地球から見ると星は光ってるけど、宇宙で見るとそうでもないんだ。太陽みたいな恒星でもあれば別なんだけど、まぁ、とにかく宇宙は真っ暗なんだ」
彼がこうして自分のことを語るのは、珍しい。今までに聞き知っていたことは、彼がひとりで途方もない距離を旅してきたことと、彼が出自を知らないということだけだった。
尋ねたことはなかった。言いたくないこともあるかもしれないと思ったから。
けれど、あまりにも彼のことを知らないのだと、胸に小さな棘が刺さる。
そんなジズの思いをよそに、ウォーカーの言葉は続く。
「そうやって真っ暗で、話す相手もいないとね、その内自分が本当に存在しているのか疑わしくなってくるんだ。何も見えないなら、このまま考えるのをやめれば、自分も闇と一体化しちゃうんじゃないかってね」
ジズはウォーカーの顔を見上げた。いつもの表情だ。悲しくなるくらいに。
どうして彼は笑っていられるのだろう。
それは、
(それは私がいつも、)
不安に思っていることなのに。
「まぁ、そのたびに、そうやって疑えるってことは自分は存在するんだなって思い直してたんだけどね……って、ジズ、どうしたの?」
苦笑してジズに向き直ったウォーカーの表情が、驚きのそれに変わる。そして、彼は慌てたように言う。
「そんな悲しそうな顔しないでよ、別に大した話じゃないんだから」
「え…私、そんな顔してました?」
「してたよ」
顔に出てしまったのだろうか。いや、出さなかったはずだ。でも。
「ねぇ、やっぱり、何かあったの?」
この人に、隠し事はできないらしい。
「…大したことじゃ、ないんですよ」
小さな声で、前置きをして。
彼に心配をかけないように、
微笑みを作った。
「ただ、ふと起きたら、真っ暗で」
確か、今日は新月。
微かな星の光は、カーテンに遮られて届かないから。
「それで、なんだか、そのまま闇に溶けてしまいそうで」
怖くなった。
自分の体すら朧気にしか見えない。
もしかしたらこのまま消えてしまうのかもしれない。
そう、思った。
「そう思ったら、本当に幽体化してしまって…怖くなって」
そう言った瞬間。
グッと、強い力で、抱き寄せられる肩。
「ウォーカー?」
「………良かった、ちゃんと触れられる」
安堵したように息をつくウォーカー。彼の手は強く肩を掴んでいた。痛い程に。
ふっと目を細めた。体の力を抜いて、彼に身を預ける。
「大丈夫ですよ、ウォーカー。どんなに暗くても」
そうだ。部屋のドアを開けるために、あんなに必死で実体化したのに。
「貴方の光が、ありますから」
彼の光を見た途端、もうそんなこと、忘れていたではないか。
「……僕の?」
「えぇ」
手を伸ばした。目の前の光。零れた綺羅星を掬いとるように。
「だから大丈夫ですよ、ウォーカー。きちんと存在しています。私も、貴方も」
微笑めば、ようやく彼の顔にいつもの笑顔が戻ってくる。
その顔を見て、ジズは幸せそうに目を閉じた。
今日はこのまま、隣で眠ってしまおうか。
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