見つけてほしいのは、きっと

 もう何冊目になるか分からない本を読み終えて、白は溜め息をついた。顔を上げると、小窓から差し込む光はだんだんと赤味がかかってきている。もうそんな時間か、と少々の驚きを感じる。今朝からずっと書斎にこもりっぱなしだったから、時間の経過を忘れていた。

独りでいる時間の方が長かったからだろうか。今でも時々、誰かといるのが煩わしくなる。独りに戻りたくなる。

 そんな時白は、一日中姿を消したままで過ごす。幽霊である我が身の能力を最大限に活用すれば、同じ幽霊であるジズにすら見つからなくすることくらいはできた。
 そして、今日も。
 本を棚にしまうと、明かりをつけようと体を実体化し、スイッチに手を伸ばす。今日はもう、この部屋から出る気はなかった。だが。
 カチャ、とドアノブの回る微かな音。それに気がつき、白は電気をつけることなくふっと姿を消して浮かび上がった。宙に腰掛けるようにして脚を組む。そして、入ってきた人物を見て、白は溜め息をついた.

(……厄介なことになった)

 このまま知らぬ存ぜぬを押し通そうか。しかし、ドアを後ろ手に閉めた彼は、部屋を見回すと、はっきりとその翠の双眸に白の姿を捉えた。

「……なにしてんの?」
 舌打ちする。彼は明らかに自分に話しかけている。
沈黙。認めたくない。悪あがき。
「……白いの」
 けれど僅かな抵抗は、名を呼ばれて脆くも崩れ去る。

「………話しかけないで下さい」
 そう言って、ふわりと地に降り立つ。見つかってしまった以上、労力を使って浮かんでいる必要はない。
「私は誰とも話したくないというのに」
 言って、睨みつける。
 いつもそうだ。自分が姿を消していても、必ず見つけられてしまう。どういう訳かは分からないが、ロッソにだけは“見えている”らしかった。別に話しかけられたからといって、応えなければいけない理由がある訳ではない。しかし同時に、結局自分は無視できない質なのだと、自分自身理解していた。だからこそ、誰にも見つからないようにしているのに。
「これでは、姿を消している意味がない」
 しかしロッソは、悪びれる様子もなく、ただ淡々と言う。
「…前から言ってるけど、姿消してても、俺には普通に見えるから区別がつかない」
 確かに何度も聞いた。『姿を消しているときは話しかけるな』と言う度、なんども。
「話しかけられたくないのに話しかけたのは悪かった。でも、気をつけようにもどうすりゃいいか分からない」

彼の言葉は、間違っていない。
でも。いや、だからこそ。


心の底が、冷えていったのだ。


「………だったら」
 息を押し出す肺が軋み、声が震える。握り締めた手。目はとうに彼の瞳を見られていない。

「だったら、もう、話しかけないで下さい」

掠れる声で紡いだ言葉は、酷く冷ややかに空気を震わせた。
(あぁ、違う、こんなことが、言いたかった訳では、ない、のに)
叫び声を上げる自我。けれど、溢れ出した言葉の奔流は、止まらなかった。

「私が消えていても見えるなら、いつもいないことにしてしまえば何の問題もないでしょう?もう気を遣わなくていいですから、話しかけないで下さい。そうすれば私も貴方も困りませんから」
 言葉が一度音になってしまえば、もう取り返しはつかない。気がつけば、目の前には、見たことのない彼の表情が、あった。 その普段から半眼気味の目が、さらに細められていて。人間で言うなら、眉間に皺を寄せた、表情。

(………怒って、いる?)

存在する筈のない体温。なのに、背筋に悪寒が走る気さえする。見たことがない。彼がそんな表情をするところなど、今まで、一回も。

(……怒らせた、私が)

「………なぁ」
「っ…!」
 低い声。いつもと変わらない。なのに身が竦む。
一歩、一歩。彼が近づいてくる。その度思わず後退りする震える足。
「白いのさぁ、」
 そう名を呼んで、ロッソの手が、幽体化している筈の腕を、しっかりと、掴んだ。

触れられる筈、ないのに。


頭の中が、真っ白になった。


「放して下さい!!」
 叫んで、振りほどいた。手は、あっさりと離れた。後ずさる。彼が見ている。変わらない翡翠の眼。何の感情も映さない瞳。それに射抜かれている。映し出されている。自分の醜さ。浅はかさ。愚かさ。
 壁にぶつかった。と思った束の間、肩がスッと壁の向こうへと抜ける。そして、そのまま。
逃げるように、外へと飛び出していた。



 振り返ることもなく、何かを目指すわけでもなく、ただただ逃げるためだけに飛んだ。自分がどちらに向かっているかも分からずに。
 気がつけば眼下には、街並みが広がっていた。沈み行く夕日に照らされた、橙色の街。いつも白が作った人形を売りに行く、街だった。
 姿を消したまま、白はぼんやりとその街に降り立った。
 夕暮れ時の街は、昼間のように賑わってはいない。散歩をしているらしい老夫婦、家路を急ぐ青年。時折聞こえる歓声は、子供たちのものか。人影まばらな道の真中に、白は立ち尽くす。


誰も、その存在に気づかない。
姿を、消しているから。


 笑い声をあげて真横の路地から駆け出してきた子供が、躓いたのか前のめりになった。とっさに、受け止めてやろうと手が伸びる。驚かせてしまうかもしれないが、今実体化すれば間に合う。はずだった。
 伸ばした手は、空を切った。
 呆然とする白の体をすり抜けて、その子供はドサッと音を立てて転んだ。数瞬後、けたたましい泣き声が響く。その声を聞きつけたのか、母親らしき女性が慌てて駆け寄ると子供を抱き上げた。

……実体化、できなかった?

 自身の手を愕然と見つめる。透けた手は、風景に溶けあってしまいそうなほどに希薄だ。強く念じる。けれど、もとに戻れない。未だ夕日を透かす体。影すら、できていなかった。子供をあやしながら、先ほどの母親は路地へと戻っていく。すれ違う瞬間、そのスカートの裾が白の足を通り抜けていった。


街道には、『誰も』いなくなる。


 自分は今、本当に存在していなかった。自分ですら疑わしくなるほど。あれほどひとりになりたいと願ったのに。あれほど誰とも関わりたくないと願ったのに。今では誰かに触れてもらいたいと渇望している。何故か脳裏に浮かぶのは、家を出る直前のやりとり。この透けた体を掴んだあの腕を、自分は振り払った。今となっては、自分が酷く恨めしい。

(今更、おこがましい)
一度振り払ってしまった手は、もう、掴めない。
(拒絶したのは、他ならぬ私だ)


存在のなくなってしまった自分に触れてくれるのは、他ならぬ彼だけだったのに。その彼を、自分は突き放した。もう、自分には、彼に触れる権利も、触れられる資格も、ない。


(………もう、いっそ、本当に消えてしまいたい)
そう思った途端、徐々に透明度を増す体。あぁ、いっそ本望だ。このまま、誰にも分からないうちに、消えてしまえば、もう何も考えなくてすむ。

もう、彼も、怒らせなくてすむ。


そう思って、目を閉じた。
消え果てることを、願った。




それなのに。

「………見つけた」

肩に、温もりが、触れた。

 いつの間にか、日は沈みきり、街灯がぽつりぽつりと点き始めていた。ハッとして目をあける。目の前には、薄茶色のコート。顔を上げれば、夕日色の頭を取り巻く紫の星。そして視線を下ろせば、自分の肩に確かに置かれた、彼の、手。

「こんな所で、何してんの」
「………なん、で」

呟く。しかし聞こえていないのか、ロッソは白を見て目を細める。

「………お前、透けてる?」
「分かるん、ですか」
「ん。でも、俺にも分かるって、まずいんじゃないのか?」

その言葉に、眉根を寄せる。
「何がまずいんですか?」
「……いや、消えやしないかと」
 その言葉に、白は歪んだ笑みを浮かべた。自虐と諦観の入り混じった目で。
「いいんですよ」
「…………何が?」
「消えてしまえばいいんです」


「貴方を怒らせてしまう私など、存在しなくても」「あのな、」

 遮る、声。
顔を上げる。ロッソの表情は、固い。あの時見せたのと同じ顔。

「別に、怒ってねーから」
 肩を掴む手に込められた力が強くなる。
「お前から話しかけるなって言われても、別に怒ったりしない」
その眼は射抜くかのように自分の姿だけを映している。目を、そらせない。
ロッソは、目を細めた。
「ただ、存在しなくていいとか言われると、悲しい」


あぁ、何故そんなことを言うのだろう。貴方を悲しませたくて、言っているわけじゃ、ないのに。


「ひとりになりたいなら、そう言ってくれればいい。だから、消えたりするのは、もう、やめてくれ」
 こんなに悲しそうな声を貴方に出させてしまったのは、誰だ。俯く。どうしたら。どうしたら、償えるのだろう?
この透けた手では、貴方の頬に触れることも出来ないというのに。
「……白いの?」
ロッソが促す。握りしめた拳が戦慄く。
「………本当、に」
そしてようやく紡いだ声は、震えていた。

「本当に、私が消えたら、嫌ですか」
それは、自惚れではなく?
「私などが?」

ロッソは、迷いなく、言う。

「嫌だ」

ふいに、肩からそっと離れる手。
そしてその手が、目の前に差し出される。
「…まぁとにかく、帰るぞ。夕飯できてるし、黒いのも心配してる」
その手に、触れたいと思った。強く強く、願った。

恐る恐る、手を伸ばす。触れられなかったら。もし、すり抜けてしまったら。躊躇い震える指先。

それでも。触れた。確かに。彼の掌に触れ、そして弱々しく握る。そんな手を包むかのように、ロッソは力強く手を握った。

「今日は白いのの好きなシチューだから」
「……私は子供じゃありませんよ」

呟きの後に、囁くような声で言った。


「………私は、居ても良いんですね」
「ん」

その手をしっかりと、しっかりと握りしめる。二度と、触れられなくなることのないように。

「……帰るぞ」
「……えぇ」



...fin

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