Je te veux

屋敷の一角に、グランドピアノのある部屋がある。かなり古いものであるだろうそれは、しかし今尚艶やかな漆黒を失っていない。
以前ふらりと迷い込んだ時に一目見ただけだったのだが、やけに印象深く脳裏に刻まれているのだった。

ロッソにはピアノは弾けない。というよりは、おおよそ楽器というものが弾けない。音楽自体は嫌いではないし、気が向けばレコードぐらいは聴くのだが、如何せん、自分が演奏することとなると全く駄目なのであった。

(まぁ、宇宙に楽器があるはずもないからな)

そうぼんやりと考えて、読みかけの本を閉じた。先程からこんなことばかりを考えていて、ページを捲る手は全く動いていない。

その原因は、何処からか聞こえてくるピアノの音だった。誰かがレコードを聴いているのか、はたまたピアノを弾いているのか。
誰か、と言っても自分以外には3人しかいないのだが、少し誰なのか気になる。そして気になると、どうしても確かめたくなる性分なのである。

「……行くか」

呟いて、本を机に置くと立ち上がった。ドアを開ける。流れるように響く旋律は階下から聞こえてくる。
曲名は分からないが、好みの曲だ。

さらに興味を惹かれて、ロッソは階下へと少し早足で降りていった。

軽くノックしてドアを開けた時、曲は丁度終わったところだった。

「………白いの、か」

意外に思った訳でもないが、そう呟く。むしろ、なんとなく白であるような気はしていた。だいたい弟ならそんなに上手くないだろうし、聞こえた旋律はどちらかと言えば憂いを帯びていたから。

「私では不満ですか?」

相変わらず刺々しい声。初対面の頃よりはマシになったものの、未だ機嫌の良い時の方が少ない。と、ロッソは思っている。


まぁ実際のところ、白の心境は、ロッソが思っている程単純でもないのだが。


別に不満とかじゃないけど、と呟いて、ロッソは遠慮することなくピアノに近づいた。大きく開いた蓋の中を覗きこむ。規則正しく並べられたピアノ線が見えた。

「あまり頭を突っ込んでいると、蓋を閉じますよ」

冗談でもなさそうな口調で白がいうので、大人しく頭を引っ込める。鍵盤の前に腰掛けた彼は、指先でコツコツと譜面台を叩いていた。その目は、何しに来たと言外に問うている。

ピアノの脇に置いてあった椅子に腰掛け、ロッソは尋ねた。

「…なぁ、さっきの、なんて曲?」
「おや、音楽に興味がおありで」

揶揄するかのような白の言葉に首肯する。知識は全くないが、興味はある。

白は意外そうに頷くと、尋ねた。

「ドビュッシーは分かりますか?」
「全然」

即答する。すると白は呆れた顔をしてため息をついた。若干、残念そうにも見える。今度勉強しておこう、とロッソは思った。

「彼のベルガマスク組曲から、『月の光』です。常識ですよ」

それが先程の曲の名前らしい。ロッソは素直に頷いた。

「分かった。レコードある?」
「ありますが?」

不思議そうに白は尋ねる。そんなに自分が音楽を聴くのが意外なのだろうか。

あてがわれた自室に、蓄音機と幾つかのレコードがあったから、良く聴いている。そう言うと、白はあぁ、と呟いた。

「貴方の部屋にあったんですか、あの蓄音機」
「……悪い、探してた?」
「いえ、別に。他のレコードなら私の部屋にありますから、言えば貸しましょう」

白は少し上機嫌だ。これはますます勉強しなくちゃな、とロッソは思った。
ひとまずお勧めの曲を訊いておこうと思い尋ねる。すると白は、普段からは考えられないほどの饒舌さで語り始めた。

ロッソは取りあえず頷きながら聞く。バロックやらロマン派やら、良く分からない単語が出てくるのだが、その度話を中断させるのも悪い気がして黙っていた。

こんなに楽しそうな白を初めて見たから。
そんなことを言ったら、また不機嫌になるのだろうけど。

彼がお気に入りだというドビュッシーとリストの曲を、今晩聴いてみよう。そう思った。


「ところで、普段貴方は何を聴いているんですか?」


ひとしきり話して満足したのか、白は椅子に座り直すとそう言った。訊かれて、ロッソは首を傾げる。

「何って言われてもなぁ…タイトル良く覚えてないんだよ」

イタリア語じゃなかったし、とロッソは言葉を濁した。語学マニアなところのある弟(実際彼は短期間で恐ろしい量の言語を習得していた)と違って、自分はイタリア語しか読めない。それすら必要に迫られて覚えたものだ。まぁ覚えようとすれば、それなりのスピードで覚えられるのだが。

「あれ、なんだったかな。フランス語?」

そう尋ねると、白は首を傾げて思案しだした。

「フランス語、ですか…それだけでは流石に分かりませんね」

分かれば、弾いて差し上げようと思ったのですが。白があまりにも自然にそう言ったので、ロッソの反応はワンテンポ遅れた。

「え……弾いてくれんの?」
「えぇ、大体の曲は覚えていますから」

白は自慢げにそう言う。案外、誰かに演奏を聴かせるのが好きなのだろうか。

それでは、とロッソは必死になって曲名を思い出そうとした。けれど、思い出せたのは、最初の一文字。
それだけで分かるだろうか。一縷の望みを抱きながら、ロッソはその言葉を白に告げた。

「確か…Jで始まるんだけど」
「………まさか、『Je te veux』ですか?」

白の言葉に、忘れていたタイトルをようやく思い出す。そうそれ、と言うと、確かにフランス語ですね、と白は言った。

「貴方がこれを好いているとは、少々意外です」
「そう?」
「まぁ。………でも、意味は分かっていないのでしょう?」

訊かれて、頷く。すると、白は笑った。安心したようにも、残念そうにも、見える笑みだった。

白は小さな声で呟いた。


「言われてみたいものですね」


その声が聞き取れず、聞き返す。

「え?」
「いえ、独り言です」

そう言ってそっぽを向く白の頬は少しだけ赤い気がした。

「ほら、せっかく弾いてやるんですから、しっかり聴きなさい!」

照れ隠しのようなその言葉にいつものように返事して。

響き出す軽やかな3拍子に耳を傾けながら、ロッソは思った。


意味が分かるようになれば、白の言葉の理由も分かるのだろうか、と。


...fin

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