昼下がりの退屈

屋敷の地下にある、広い書庫。その本棚の間をゆっくりと歩きながら、ウォーカーはとある本を探していた。

「兄さん、あった?」
「………いや、ない」

尋ねると、数秒の間のあと、棚を隔てた向こうから聞こえる兄の声。何度か本を捲る音が聞こえてきていたのだが、どうやら外れだったらしい。

ウォーカーは溜め息をついた。なにしろこの書庫は広い上に、本は全く整理されていない。シリーズものでさえ、バラバラに仕舞ってあるのだ。まして一冊の本を見つけるのは、至難の業だった。

遅い昼食を取ったあと、ウォーカーはロッソと、おもむろにある日本の童話について話していたのだが、何故か双方の覚えている話の筋が食い違っていたので、こうして原本を探しているわけである。

なお、その童話とは「浦島太郎」である。ウォーカーは当然亀を助けた浦島太郎が竜宮城に連れて行ってもらったと記憶していた。
しかしロッソに言わせると、浦島太郎は釣り上げた亀を放してやった恩を着せ、竜宮城に連れて行かせたのだと言う。

「そんな横暴な主人公は嫌だよな…」

ウォーカーはひとりごちて苦笑した。 「確か、この辺だったと思うんだけどな…」
頭ひとつ分高いところにある本に目をやる。古い本なので、背表紙はかすれてよく見えない。それを読み取ろうと無心になっていたため、ウォーカーは背後に近づく影に気がつかなかった。

「あー、ウォカ、そのまま」
「え?」

突然、至近距離からかけられた声に驚き、振り返ろうとした瞬間。


ふくらはぎに、突然の衝撃。


「えっ!?」
かくん、と、膝から力が抜けた。
そしてウォーカーは、バランスを崩してそのまま床にぺたりと座り込んでしまう。

訳が分からずに視線を上げると、無表情な2つの緑の瞳。

「だいせーこー」

抑揚のない声で、ロッソはそう言った。ウォーカーは面食らう。一体何が成功したというのだ。まさか、今の犯人はロッソなのか。

「…に、兄さん、何したの?」
「ひざかっくん」

目が点になる。

「………え?」
「ひざかっくん」

ロッソは繰り返してそう言うと、手にした一冊の本を振った。

「本に書いてあった」
「……それを僕で試したと?」
「そ」

悪びれもせずこっくりと頷くロッソに、ウォーカーは再び溜め息をついた。
実は、今屋敷には2人しかいない。ジズと白はというと、隣町に出かけていた。なんでも、白が町のくじ引きで、オペラのペアチケットをあてたのだという。当然ロッソと行くものとウォーカーは思ったのだが、ジズが興味を示したため、白はジズを連れ出したのである。

正直幽霊なのだから姿を消せば見放題だと思うのだが、白に言わせると芸術とはその様に観るものではないらしい。ウォーカーにはいまいちその辺が理解できない。


まぁそんなわけで、なかなかの遠出のため2人は朝から出かけてしまっている。すると当然、屋敷にはウォーカーとロッソ、2人きりというわけで。


「なんでこんな子どもじみた事するかなぁ」

ウォーカーは立ち上がって埃を払った。溜め息は毎度のことになっている。兄はというと、ウォーカーのことはアウトオブ眼中で本を棚に戻しにいっている。謝罪と賠償を請求したい気分だ。


全くこの兄という人は、普段は1人で勝手に家事だの読書だのしている癖に、白やジズがいなくなるとやたらと自分によってくる。

しかも最近分かってきたのだが、ロッソは、自分より年上のくせに変に子どもじみた行動を起こすことがある。好奇心旺盛と言えば聞こえはいいが、度々その実験台になっているウォーカーからしたらたまったものではない。現に今だってひざかっくんの餌食になったわけだから。

「もういいよ…とりあえず、ここ出よう」
僕が折れるから、とウォーカーは両の手を上げた。

一階に上がってきたところで、ロッソは「花に水やってくる」と言って外に行ってしまった。

ウォーカーは安堵の息をつく。やっと落ち着けそうだ。

リビングのソファーに深く腰掛けて、午前中から読みかけだった本を開く。

「全然進んでないや…兄さんのせいで」

全く、朝から勢いよく部屋に起こしにきたと思ったら、完成したという手づくりのヨーグルトを食べさせ(結構おいしかった)、その後やたらと映画を一緒に見ようとせがみ(『呪怨』だった。全力で拒否した)、部屋に避難すれば、レコードを持って押しかけてくる。


「何だったんだろう、あのレコード…」

思い返して、首を傾げる。まさか兄が音楽に興味があるとは思っていなかったので、意外だったのだが。

『なーウォカ、これなんて読むの?ジェテベウクス?』
『ジュ・ト・ヴュでしょ…』

呆れてそう答えた。フランス語をローマ字読みしてどうする。
すると、ロッソは思い出したと言わんばかりに手を打った。

『あぁ、白いのそう言ってたっけ』

じゃあそれで覚えてくれ、と思ったのだが、ウォーカーは口に出さなかった。

『なぁ、なんて意味?』

白いの教えてくれないんだよ。
そう言うロッソに、自分で調べろと言ってフランス語辞書を投げつけてやったのだが。

「なんでそんなの調べてたんだろ…」

ウォーカーは、一人苦笑した。

「『お前がほしい』だなんて、誰に言うつもりなんだか…」

すると、コンコン、と窓を叩く音。
見れば、テラスに続く窓の向こうに、ロッソが立っていた。その手には、何かカゴが握られている。

ウォーカーはとりあえず窓を開けてみた。

「これ」
「……何?」

ロッソはカゴの中身を見せつけてくる。その中には、

「ブルーベリー。いっぱい穫れた」
「わぁ、すごいじゃん……って待った、これひとりで穫ったの!?」

山のようなブルーベリー。確かロッソが外に行ってから、15分くらいしか経っていないと思うのだが…。

ロッソはこっくりと頷いた。最早突っ込むのも馬鹿馬鹿しいので、ウォーカーは取りあえず会話を続ける。

「すごいね…あ、もうすぐ3時だし、食べようか?」
「……いや」

すると、ロッソは首を横に振った。

「ジャムにする」

そう言った彼の目は、やけに輝いていた。
それが子どもみたいで、思わずウォーカーは微笑む。

ロッソはそれだけ言うと満足したのか、玄関の方に行ってしまった。ウォーカーは窓を閉めて、再び読みかけの本を手に取った。

何故だか今度は、穏やかな気持ちで読める気がした。

そうして、しばらく時間が経ち。

ウォーカーは本を閉じると、顔を上げた。無事、読了することができた。満足感を覚えて、立ち上がると伸びをする。窓の外は赤い夕焼け空。もうじき夕食か、と思った、その時だった。

ガチャ、と部屋のドアが開いて、ロッソが顔を出す。

「なぁ、ウォカ、絆創膏ない?」
「え?」

思わぬ単語に、聞き返す。するとロッソは左手を差し出した。手袋をしていないその手。その指先から、滴り落ちるのは、赤い血。

「包丁で切った」
「え…え!?大丈夫!?」

ウォーカーは我に帰って、ロッソに駆け寄った。ロッソは平然としているが、傷は浅くはないようだった。

絆創膏など、あっただろうか。取りあえず置いてあったティッシュでその指を包み、強く握った。

「痛くない?」
「んー、まぁ、切れたとこは結構痛い」

初めてだから面白いな、と言って、しげしげとティッシュに滲む赤を眺める。そんな兄を窘めるように、ウォーカーは指に込める力を強くした。

「絆創膏探してみるから、押さえてて!」
そう言って手を離す。ロッソは素直に従った。そしてそのまま、ソファーに座る。ウォーカーはそんな彼に背を向けて、棚を探り始めた。

「……血、ちゃんと流れてるんだな、俺たちも」

つくりものの体なのになぁ、と呟く声に振り返る。
ロッソはまだ興味深げに指を眺めていた。

ウォーカーは絆創膏を探す手を休めずに、応える。

「そりゃそうだよ。僕らは怪我もするし、病気もする。人間より少し頑丈だけど、死ぬことだって、無いわけじゃない」

当たり前のこと。確かめるように口にする。当たり前のことだが、意識したことはなかった。ウォーカーだって初めて見たのだ。あんな鮮明な、赤。

背を向けたまま、ウォーカーは呟く。

「だから、気をつけてよ」
「……ん」

それに答える声は、いつもより少し上機嫌で。いつの間にか声だけでそれが分かるようになっている自分に苦笑した。

「あー、心配してくれる可愛い弟を持って、お兄さん幸せ」
「……絆創膏、いらない訳?」

心底幸せそうな声で言われてしまうと、悪態をつく声にも力が入らない。

なんだかんだ言って、自分は存外この兄が嫌いではないのだと、苦笑するつもりが、穏やかな笑みを浮かべていた。

もうしばらくは、兄の言動に付き合ってやってもいいかな、と、弟はそう思った。


...fin

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