晩夏光

いつか忘れてしまうとしても、あの夏の日を、三人で過ごしたということだけが、確かな事実だった。


ガラスの向こうに、遠く滑走路が見えた。きらきらと光を反射する、幾つもの水溜り。台風一過の雲一つない青空に、遠くを走る白い機体が映える。しかし、それも束の間。窓の外の景色は厚い壁に遮られ、やがて車両はスピードを落とし駅に停車した。
 モノレールを降りると、地下特有の篭もった空気が押し寄せる。冷房の効いた車内に比べると、酷く暑い。帰省ラッシュの時期ではない筈だが、それでも普段暮らす町より人が多いのに違いはない。人ごみは、あまり好きではない。小さく溜息をついて、千草は蠢く人並みに押されるように歩き出した。
 
出発の時間まで、あと五時間はある。しかし国際線だ、出発までの手続きには時間がかかる。もう来ていてもおかしくないだろう。或いは、もうロビーなどには居ないかもしれない。友人の顔を思い浮かべながら、自然と早足になる。それと同時に、何を必死になっているのだろう、と冷静な自分が鼻で笑う。別に会えないなら、会えないでも良い気がしていた。一生の別れという訳でもないのだから。
 ならば何故わざわざ電車を乗り継いでこんな所まで来たのか、自分でも良く分からなかったのだが。

 カツン、と白い床を靴底が叩く音。見上げれば、霞むほど高い天井。やけに開放感溢れる白い空間に、友の姿を探して歩き出す。ひしめき合う人の群れ。同じような背格好、同じような年齢の人影を見れば、自然と目がそれを追う。あれでもない、こちらも違う、何度も何度も淡い喜びと失望を繰り返す。それはしだいに焦燥へ、そして諦めへと変わる。やはり、もうここにはいないのだ。恨めし気にカウンターの左横にある扉を見つめた。スーツケースを引きずった人々が消えていくその向こう、そこに友がいたとしても、自分には行くことはできない。
 ゆっくりと息を吐く。諦観が心の隅まで染み渡るように。やはり、約束もなしに会うことなど無謀だったのだ。もう、諦めて帰ろう。ふっと口の端を吊り上げる。その視線の先を、自分と同じくらいの歳の男が通り過ぎる。だがもう、期待などしない。焼けた肌が友人を思わせたが姿を重ね合わせることなど無意味だ。
 千草は目を背けた。が、しかし、脳の片隅で記憶が疼く。あれは友人ではなかったか?
いや、ただの他人の空似だ。諦めようとする自分。しかしそれでも、確かめてみろと愚かにも希望を抱く自分がいる。結局その希望の声に、千草は抗えなかった。
目を凝らす。腕時計を見ながら、赤いスーツケースを引きずり歩く姿。良く、似ている。いや、もしかしたら、本人ではないか。希望は期待へ変わる。そして振り返った彼の顔を見て、期待は確信へと、変わった。
間違えるはずもない。見飽きるほど見慣れた、あの姿は。 
「鴇也!」
 気がつけば、大声で名前を呼び駆け出していた。彼が大きく目を見開いてこちらを見る。そしてその表情はすぐに、溢れんばかりの笑顔に変わる。白い床と灰色の人の群れの中、懐かしさすら覚えるその表情だけが色彩を帯びて見えた。
「千草、どうしたんだよ!」
 駆け寄ると、鴇也は驚きと喜びに満ちた目を輝かせてそう言った。それに苦笑して、返す言葉はいつもの憎まれ口。
「どうしたって、見送りに来たに決まってるだろ、どう見ても」
「先に言っといてくれりゃいいのに……」
 唇を尖らせて鴇也がそう言うので、昨日思い立ったんだよ、と言い返した。実際、そうだったのだから仕方あるまい。明日から後期課外が始まる、貴重な最後の休み。その日にわざわざ遠出なんて、きっとあの電話がなければしなかっただろう。そう、電話がきっかけだったのだと思い出して、千草は付け足した。
「まあ、思い立ったのは俺じゃなくて碧なんだけどな」
 それを聞いて、鴇也がハッとした顔をする。そして慌てた口調で尋ねた。
「そうだよ。碧は……どうした?」
「病院。今日、手術だとさ」
 鴇也が息を呑むのが分かる。一瞬、動揺に揺れる瞳。それを平静な目で眺めながら、千草は続ける。
「お前に会えないって電話で残念がってたよ」
そう言うと、鴇也はどうにか落ち着きを取り戻したらしい。手術という言葉に驚きはしたが、命に別状があるわけではないことを思い出したのだろう。彼はふっと息を吐くと、肩を竦めて笑った。
「俺も残念だなぁ。千草はともかく、碧は絶対来てくれると思ってたのに」
「何だよその言い草は。ちゃんと来てやっただろ」
「だってお前碧が言わなかったら来なかったんだろ?」
ムッとして言い返すと、そう言って鴇也は笑った。それが少々頭にきたので、その能天気な顔に一つデコピンを喰らわせてやる。
「痛てっ!」
 そう叫んで額を押さえる鴇也の顔が余りに情けなくて、千草は思わず声に出して笑った。そんな千草を鴇也は睨みつけていたのだが、やがて肩を震わせて、最終的には笑い声を上げた。そうして、二人してしばらく笑い続ける。理由もなく、馬鹿みたいに。
 
こうしていると、何故だか明日学校でも鴇也に会えるような気がした。どうしても、これからしばらく会えなくなるとは思えなかった。それくらい、何も変わらなかったのだ。哀しいほどに。
笑いながら、千草は思い返す。たった十日前の出来事。けれど今となっては酷く遠い日のことのように思える、おそらく最後であろう、三人の夏を。

     +   +   +

 ガタンガタン、と規則正しく続く揺れ。窓から差し込む強すぎる日差しが首筋をじりじりと焼く。首にかけたタオルを直すが、窓越しの太陽光は容赦なく照り付けてくる。
市街地の中を列車は走る。立ち並ぶ家屋に遮られて、時々影になるものの、それでも車内は暑かった。僅かにかかっている筈の冷房も、全く功をなしていない。
「いやー、今日は絶好の海水浴日和だな!」
 暑さに辟易しぐったりしている千草の隣で、鴇也がすっかり日に焼けた顔をほころばせた。短い髪は日に当たりすぎたのか、赤味を帯びている。その無駄に健康的な姿に少々呆れたが、千草はいつもの悪態を吐くこともせずに溜息をついた。その反応に拍子抜けしたのか、鴇也が苦笑する。
「お前今からそんな疲れててどうすんだよ。碧も全然元気だってのに」
「それは…僕の席は日が当たらないからだよ」
左側から、控えめな声。ちらりと視線をやれば、一番隅の席で小さくなっている困ったような笑顔が見えた。その肌は、透けてしまうのではないかと思うほど白い。日に焼けたら痛くならないだろうか、と、暑さでぼんやりとした頭で千草は思った。
「千草、大丈夫? 良かったら、席変わるけど」
「いや、だいじょーぶ、多分」
 ようよう口を開いてそう言うと、全然大丈夫じゃなさそうだけど、と碧は苦笑した。そして、抱えていたリュックサックの中から、ペットボトルを取り出す。タオルに包まれたそれは、どうやら凍らせてあるらしかった。
「お茶、飲む? まだ溶け切ってないから、苦いかもしれないけど」
「ん、サンキュー」
 ありがたくそれを受け取って、額に押し当てる。心地よい冷たさに、照りつける光まで弱まったような気がした。朝の八時に家を出て、電車に揺られること僅か一時間。確かにこれでは先が思いやられるな、と千草は心の中で苦笑した。
「あ、いいなーそれ。俺も凍らせてくればよかった」
 千草が手に持つペットボトルを指差して、鴇也が羨ましげにそう言った。そんな鴇也に碧はまるで子どもに対する母親のように笑いかける。
「ちゃんと鴇也の分も持ってきたって。まだ甘すぎるから、向こう着いたらね」
「マジで! やった、サンキュー碧!」
 そんな碧に対し、本当に子どものようにはしゃぐ鴇也。これじゃまるで本物の親子だ、同級生なのに、と自分を跨いで交わされる会話に千草は苦笑した。
「しっかし碧、準備いいな」
「鴇也ほどじゃないけどね」
 感心したような声を上げる鴇也に、苦笑いを浮かべて碧は荷台の上の荷物を指差す。そこには、大きなエナメルバッグが一つと、何か長い筒のようなものがあった。
「こんなにたくさん……何持ってきたの?」
「ん? ビニールシートとか、パラソルとか」
「パラソル?」
 千草は思わず疑問の声を上げた。おそらくあの長い筒の中身がそうなのだろうが、確か鴇也はそれを肩にかけていたはずである。
「あんなに短くちゃ意味ないだろ」
 そう指摘すると、
「アホか、伸びるんだよ」
 嘲笑されてしまった。思わずムッとする。鴇也にそう笑われるのは無性に悔しい。だから千草は、ぞんざいな口調で言った。
「そんなもん必要か?」
「いや、どー見ても一番必要そうなのはお前なんだけどな」
しかし、そう返されてしまう。確かにそうだ。返す言葉もない。千草は目をペットボトルで覆って言葉を濁す。その様子に、しょーがないな、と言って鴇也は苦笑した。
「ま、海まではバス出てっから。着く頃には元気になるだろ」
「だといいけどな」
投げやりな返事をして、千草は目を閉じた。あと数分で着くようだ。それまで少しでも休んでおこうと、ペットボトルを包んでいたタオルを首にかけて目を閉じる。タオルはすっかり濡れていて、それが心地よかった。
 しばらく静寂が続く。大して乗客のいない車内は、時折家族連れの話し声が聞こえてくる程度で、後は電車の揺れる音しか聞こえない。耳に心地よいその静けさ。
 しかし、その静寂を破って、
「……うわぁ、海だ!」
「おぉー……千草、海だぞ海!」
 突然、両側で上がる歓声。千草は少々の驚きを覚えて、左隣を見る。鴇也はともかく、碧がそんな声を上げるなんて、珍しい。碧は向かい側の窓に広がる海を見つめて、目を輝かせていた。両の腕で、リュックサックをぎゅっと抱きしめている。
「そんなに楽しみだったのか?」
 不思議に思ってそう尋ねれば、
「そうだよ。だって、三人で海水浴とか、初めてだし」
 碧は水平線を眺めたまま、弾んだ声でそう言った。そしてその後、誰にも聞こえないような声で、呟いた。
「それに、きっと、これで最後だし」
駅名を告げるアナウンス。鴇也が立ち上がって荷物を下ろしだす。あまり多くない乗客の何人かが降りる準備をし始める。彼らもきっと、海に行くのだろう。
 千草は碧の肩をぽんと叩いた。言葉はなかった。碧は頷いて、立ち上がった。ドアが開く。吹き込んでくる潮風。千草も立ち上がり、そして歩き出した。

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