「千草、お前も早く入れよ!」
 暑い。いや、熱いと言っても良いほどの強い日差し。波が寄せる度に雫が跳ね、きらきらと眩しく光る。憎らしいほどの晴天の下、透き通ってはいないものの蒼い海が広がっている。緩いカーブを描く水平線の手前に並ぶ、黄色と赤の浮きが目に痛い。
 海水浴場、という割にはさほど混雑しておらず、ある程度の賑わいはあるものの人の多さに煩わされることはない。海の家もあるし、なかなか良い場所だ。祖父母の家がこの辺りにあるという鴇也に言わせれば、この海水浴場は所謂穴場らしかった。
 千草は足首のみを水に浸して、波打ち際に立っていた。そんな彼を先ほどから呼んでいる鴇也はというと、とっくに海に入り、シャチを模したボートにまたがっていた。その隣では、碧がバナナボートに掴まって浮いている。
「聞いてんのか千草、いいから早く」
「いや、俺はいい」
 千草は鴇也の言葉を皆まで聞かずにそう言った。鴇也は絶句する。何故なら、千草が普段ならあり得ないほどの爽やかな笑みを浮かべていたからだ。
「あ……あれ? なぁ、入んねーの?」
「あぁ」
 千草は腰に手を当てて頷いた。
「お前達がはしゃぎ過ぎて溺れたりしたら敵わないからな。誰かが見張ってないといけないだろ」
「いや……なら、水着に着替える意味ないだろ」
鴇也は他にもいろいろと突っ込みたいことがあったのだが、千草の満面の笑みに気圧されてやめる。
「これはお前達に水をかけられた時の対策だ」
 確かにそう言う千草は、水着の上にパーカーを羽織っている。それもしっかりと、防水仕様のものだ。鴇也は呆れて、再び言葉を失う。その横で、碧が呟いた。
「あれ、鴇也、知らなかったっけ?」
「ん、何を?」
「あ、知らないんだ」
 鴇也が首を傾げてそう尋ねると、碧は勝手に納得したのか頷いた。そして、にっこりと笑う。しかし、その目が一瞬悪戯っぽく輝いたのを、鴇也は見逃していない。
 そして碧は、両手をメガホンにして口に当てると、大きな声で叫んだ。
「ちくさー! 泳げないんだから、無理して入らなくっていいよー!」
「なっ……!」
 千草の顔が、引きつる。
「碧、お前、何言って……!」
「え、千草泳げねーのか!?」
一瞬の間を置いて千草が発した言葉は、鴇也に遮られる。明らかな狼狽を見せる千草をよそに、鴇也は隣の碧にそう尋ねていた。その問いに、碧は笑顔で、わざとらしすぎるほどの大声で答える。
「うん、幼稚園生の時からずっと、水怖くってプール入れないんだよ。最近は怖がらなくなったけど、やっぱりまだ泳げないみたい!」
「馬鹿、よせ碧!」
千草が静止の声を上げるが、碧は鮮やかにそれを無視する。
「小学生の時なんか、プールに入りたくなくて泣いて」
「だからっ、もう話すなみど……っ!」
 耐え切れなくなって走り出した千草は、波に足を取られてつんのめった。そして、鴇也と碧が凝視する前で、勢い良く転ぶ。水飛沫が上がった。
 一拍の間のあと、鴇也と碧が大声で笑い出す。鴇也などは笑いすぎてボートから落ちそうになっている。千草は手をついてよろよろと立ち上がった。頭までずぶ濡れになっている。口の中に海水が入ったのか、口元を押さえて顔を歪めていた。
「っははは、ごめんごめん千草、まさか転ぶとは思ってなくて……!」
涙まで浮かべて笑う碧を睨みつけて、千草は濡れて肌に張り付くパーカーを脱いだ。もう、こうなってしまったら、入ってしまうより他はない。
「碧、お前な……」
「ホント悪かったって。ほら、バナナボート貸してあげるから」
碧はバナナボートを抱えて千草のもとへゆっくり歩いてくると、それを千草に押し付ける。渋々それを受け取る千草に笑いかけて、碧は岸の方へと歩いていく。千草は振り返って尋ねた。
「あれ、お前何処行くんだ?」
「海の家で浮き輪かボート借りてくるよ。僕も欲しいし」
 笑ってそう言う碧に、千草は声のトーンを落として尋ねた。
「一人で大丈夫か?」
「やだなぁ、子供じゃあるまいし」
 そうおどけて答える碧だったが、千草の真意を分かっているのか、小さな声で付け足した。
「大丈夫、まだちゃんと見えてるから」
「……そうか」
 頷いて、歩き出す。腰まで海に浸かったところでボートに掴まると、そのまま鴇也のところへと向かった。
「千草、お前泳げなかったんだな!」
 ニヤニヤしながらそう言う鴇也に苛立ったので、取りあえずシャチのボートを強く突き飛ばした。すると鴇也は情けない声を上げてボートから転落する。やがて浮かび上がってきた鴇也は、ぶるっと頭を振って水を飛ばすと、先ほどの自分のようにニヤニヤと笑う千草を睨む。そして暫く反撃しようと思案していたのだが、結局口では勝てないことに思い至ったのか、溜息をついて諦めた。
「……で? 碧はどこに行ったんだよ」
「浮き輪借りてくるって。海の家に」
 それだけの答えで、先ほどの二人の遣り取りの内容を理解したらしい。鴇也は碧が駆けていった方を見遣りながら、呟く。
「……あいつの目、どうなってんの?」
「まだ見えてるって本人は言ってるけどな」
 千草も鴇也と同じ方向を見たまま言う。その目は鋭い。ちらりとその横顔を見て、鴇也は問うた。
「緑内障……って、視界が狭くなってくんだろ?」
「らしいな」
「じゃあ、病気が進んだら……」
 どうなるのか、と言いたかったのだろう。しかし、答えは容易に予想できる。だからこそ鴇也は問わなかったのだし、千草も敢えて答えなかった。その代わり、気休めだと知りつつも答える。
「まぁ、今度手術するって言ってただろ? それでしばらくは大丈夫だっていうから」
「……そっか」
そう言って微笑むが、鴇也の声には力がない。彼も知っているのだ。手術が最終手段だという事も。今までの投薬やレーザー治療で病気の進行が防げていたなら、手術の必要などない事も。そして、手術でも防げなかった時、もう、後がない事も。
「…………なぁ、千草」
「……なんだよ」
 鴇也が組んだ腕に顔を伏せて言う。
「俺が留学した後も、お前ら、二人でいろよ」
 波音が酷く遠く感じた。絶えず続くそれは声に混ざりやがてはかき消そうとするかのように。
「……それ、どういう意味だよ」
「そのまんま。仲良くしてろよってこと」
 そう言うと、鴇也は顔を上げた。そこには、吹っ切れたような笑みがあった。彼は空を仰ぐ。
「あーあ、いいなぁお前らは」
「……何が」
「だって、俺がアメリカから帰ってきたら、お前ら三年生だぜ。で、先に卒業じゃん」
千草は言葉を失う。確かにそれは当たり前のこと。なのに、今まで考えてもいなかった。そうだ。鴇也を置いて、自分達二人は、卒業していかなくてはならない。
「それも承知の上での留学だけどさ。なんかやっぱり、寂しいよな、そういうのって」
それでも鴇也は笑っていた。だから、何も言えなくなる。学年が違っても友達だ、とか、離れても友情は変わらないとか、そんなことは綺麗ごとでしかない気がして、言うのは憚られた。確約は、できないから。
ふと、呼ぶ声が聞こえる。岸の方を見遣れば、碧が手を振っていた。その手には、浮き輪でもボートでもなく、トレイが握られている。
「カキ氷買ってきちゃった! 皆で食べよう!」
「おー! カキ氷か! 食べる食べる!」
 パッと目を輝かせた鴇也が元気良く返事する。そして、千草を見てニカッと笑う。
「行こうぜ千草!」
 そのいつもと変わらない笑顔に、どうしようもなく。
「……あぁ」
結局千草は微笑むことを選んだ。


 そうして、鴇也が持ってきたパラソルの下でカキ氷を食べ、ついでに昼食をとり、海で遊んだり昼寝をしたりする内に、とっぷりと日は暮れていた。暗くなる前に帰ろうということになり、電車に乗って帰り着く頃には、既に東の空は群青色に染まっていた。そんな時だった。鴇也が突然、行きたい場所があると言い出したのは。
「え……もう暗いぞ」
 自転車置き場に止めた自転車のカゴにバッグを放り込んで、帰るつもりだった千草は眉をひそめる。
「いや、暗いからいいんだって。自転車ですぐだから、な、ちょっとだけ」
そう言って手を合わせる鴇也に、困ったように笑いながら碧が言う。
「ごめん、鴇也……僕、歩きで来たんだ」
「そっか……」
 すると、鴇也は顎に手を当てて考え出した。その表情を見るに、まだ諦めた訳ではないらしい。そして、案の定彼はニヤリと笑うと千草を指差す。
「じゃ、千草が後ろに碧乗っけていけばいーや」
「……は? いや、乗せるなら言い出したお前が乗せろよ」
「いやー俺荷物多いし」
千草の文句を軽く受け流し、悪びれもせずに鴇也はそう言う。それを睨む千草との間に、碧が取り成すように割って入った。
「鴇也、やめとこうよ。どっちに乗せてってもらうのも悪いから」
「う……」
碧にそう言われてしまうと、弱いらしい。鴇也は口を噤んでしまう。その迷子の子供のように悲しげな顔に、結局千草が折れることになる。毎度毎度の事ながら、自分は甘い。千草は溜息をついて、言った。
「……分かった、俺が乗せてく」
「え……そんな、いいよ、千草」
 碧が慌てて首を横に振る。それに苦笑いする。今更何を遠慮することがあるのだろう。二人乗りなど、中学生の頃は散々していたというのに。
「別にお前そんなに重くないから。鴇也、そんなに遠くないんだろ?」
「あぁ、すぐそこ!」
鴇也が目を輝かせて答える。その答えに頷いて、自転車の鍵を開けた。鴇也も早速自転車にまたがる。千草は、なおも躊躇っている碧に手を差し出した。
「ほら、行くぞ、碧」

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