夏の日は長いとはいえ、七時を過ぎれば十分暗い。ぽつりぽつりと街灯が照らし始めた道を、二つの自転車は駆け抜けていく。
「千草、疲れない? 大丈夫?」
「別に。あの体力馬鹿には敵わないけどな」
 そう言うと、後ろでクスクスと笑い声が聞こえた。そしてその体力馬鹿はというと、見失いはしないものの、随分先を走っている。相変わらず後ろを振り返ることをしないやつだ、と千草は溜息をつくと、速度をあげた。
「……楽しかったね、今日」
「ん? あぁ、そーだな」
 肩越しに聞こえる声。ペダルを漕ぐことに集中していた千草は、ワンテンポ遅れて返事をした。ライトが点灯して、いつもよりペダルが重いのだ。
「随分長い付き合いなのに、そういえば海行ったことなかったもんね、僕たち」
「そりゃ……俺が泳げないからだろ」
口をへの字に曲げて千草は言う。苦々しげな声。それに笑い声を上げて、それもあるけどさ、と碧は言った。
「やっぱり目が悪くなり始めてから、外に出辛くなっちゃったから。だから、二人と行けたの、本当に嬉しかったんだ」
残酷な病気だ、と思う。ゆっくりと欠けていく視界。じわじわと小さくなる世界。対抗しうる全ての策を弄しても、その進行を遅れさせることしかできなかった。彼は全力で抗った。それでもきっと、今彼が見ている世界、それは自分のものより遥かに小さい。

彼の見た水平線は弧を描いていたのだろうか?
 
「ねぇ、千草」
 振り落とされないように、しっかりと千草の腰に掴まりながら。風の音にかき消されそうな声で碧が名前を呼ぶ。振り返ることはできないから、なるべく大きな声で応える。
「なんだ?」
「あのさ……もし、もしなんだけどさ」
 音を立ててトラックがすれ違う。対向車線の眩しい光。
「もし、僕の目が見えなくなったらさ」
 行き交う車の喧騒と、強く吹く風の音。その中で、その言葉は、いやに大きく響いた、気がした。
「僕のことはいいから、千草と鴇也は、ずっと仲良しでいてね?」
身体を掴む手に込められた力が、強くなる。振り返ることができないのが、酷くもどかしい。本当は今すぐに、そんな事を言うなと言ってやりたかった。その目を、真直ぐに見て。
なのに、結局、自分でも嫌になるほど、淡白な言葉しか返せない。
「……そんなこと、あるわけないだろ」
「分かんないよ、そんなの」
 聞こえた声は悲嘆にも絶望にも染まってはいなかった。ただ、どこか諦めたような明るさだけ、湛えた声。
「薬もレーザー治療も駄目だったし、もう、これ以上期待しない事にしたんだ。失望するのは、嫌だから」
ただ強く、ペダルを漕ぐ事しかできない。続く碧の言葉を遮る力すら、自分は持っていない。ただ聞くこと他に、選択肢などなかった。
「手術したって、無くした視野が返ってくるわけじゃないんだ。ただ、これ以上見えなくなるのを防ぐだけ。それだって、確実じゃないし、だったらいつかは見えなくなるって思ってた方がいいじゃない」
そんな哀しいことを、そんな明るい声で言う。それが一層痛々しく、千草は目を細める。
「絶望ってさ」
 碧の言葉は続く。日は既に西の空に沈み、細い月が東の空から昇る。雲ひとつ無い星空に、少しずつ星が瞬きだしていた。
「きっと、本当は凄く能動的なんだよ。望みが『絶たれた』んじゃなくて、望みを『絶つ』んだ。自分からね。望みを失うんじゃなくて、最初から何も望まない。そうすれば、傷つかなくてすむじゃない」
違うかなぁ。そう言って、碧は笑ったのかもしれない。いや、泣いていたのかもしれない。それは分からなかった。
「ね、千草、だから」
ただ、違う、と言ってやれなかった自分がいた。
「僕の目が見えなくなっても、二人は友達で、いてね」


 辿り着いた場所は、学校の裏手にある公園だった。この町は、全体が丘のようになっており、学校から駅に向かって緩く傾斜している。そして学校からさらに後ろは、急な坂道になっていた。千草や碧は駅の近くに住んでいるから、この辺りまで足を伸ばしたことはなかったのだが。
「うわぁ……」
 自転車から降りた碧は、そう息を漏らして立ち尽くした。先に着いていた鴇也が、振り返って自慢げに笑う。
「すごいだろ? 一度お前らに見せてやろうと思ってて」
 急な坂を上り終えた先に待っていたのは、見事な展望だった。そんなに高い位置ではないのだが、場所がいいのだろうか。眼下にきらめく無数の灯りは、空に光る星よりも多い。その真中を走る光の筋は、電車の灯りだろう。その見事な夜景に思わず嘆息して、千草は二人の後ろで立ち尽くした。
「……この景色とも、しばらくお別れか」
「……そうだね。あと、十日だもんね」
 鴇也の呟きに答える碧。二人の声が、遠く聞こえる。千草はその場から動けなかった。ただ、その向こうの夜景ではなく、その手前の二人の背中だけを、見ていた。

 二人は、どちらとも、強い。強い意志を持って、未来を迎えようとしている。自分自身の選択で、未来を決めようとしている。
 そして、二人は、酷く優しい。誰よりも、他人の幸せを願っていた。自分がいなくなった後も、残された二人が幸せであることを、願っていた。
 自分はどうなのだろう。何を決めたのだろう。何を願ったのだろう。希望も、絶望すら、何一つ、能動的に願ったことは無く。ただひとつ、この今が、現在が、いつまでも続けばいいと漠然と思いながら。
 そんなに長く続かないことは、始めから分かっていた。いつか忘れる、そんなことは分かっていた。離れても、友情がなくなるわけではない。それでも、いつまでも一緒に居たときのような仲でいられるわけではない。分かっていた。けれど、その別れは、余りに唐突過ぎた。
 もっと長く続くと、思っていたのだ。それは一生の年数に比べれば、ほんの僅かの違いだったけれども。もっと長く、三人でいられると思っていたのだ。だから、甘えていたのかもしれない。現状に甘んじて、前を見ることをしなかった。その間に、二人は既にそれぞれの未来の方角を向いていて、自分だけが、取り残されたまま。

 眩しいのは、二人の方だった。

「……来年、日本に帰ってきたら、真っ先に見にこようと思ってるんだ」
「……その時は、僕らも一緒に来るよ」
そう言って、碧は振り返った。その表情は、逆光で見えないまま。
「ね、千草」


 そうして、三人の夏は、終わった。

     +   +   +

 アナウンスが流れた。それに鴇也が顔を上げて、電光掲示板を見た。
「あ……そろそろ、時間だわ」
「……そっか」
 頷く。多少の名残惜しさは感じるが、引き止めるようなことはしない。鴇也も同じなのだろう、いつものように笑う。その目が少しだけ寂しそうだったのは、きっと気のせいだ。
「全然話せなかったな、せっかく見送り来てくれたのに」
「別にいいだろ。話なんて、電話でもメールでもできる」
「まぁ、そうだけどさ」
素っ気無いな、と呟いて、鴇也は頬をかく。千草は早く行け、とばかりに右手を振った。
「ほら、早くしないと間に合わないぞ」
「あ、そーだった」
 そう言って、鴇也は自分の前に置いていたキャリーバックを掴みなおした。そして、少しの間俯いていたかと思うと、すっと顔を上げる。
「……じゃあ、行ってくるな」
「あぁ」
「碧にも、よろしくな」
「あぁ、ちゃんと言っとく」
 短いやりとり。それだけだった。鴇也は頷くと、身を翻す。そして、迷いない足取りで、扉へと歩いていく。千草は追いかけることなくその場に佇んで、それを見ている。

 何も、言うつもりはなかった。もう何も、伝えることなどないはずだった。けれど。

「…………鴇也!」
 気がつけば、呼び止めていた。その声に、鴇也の足がぴたりと止まる。引き止めるつもりなど、なかったのに、言葉が、意思に反して紡がれていた。
「あのさ、帰ってきたら」
 そんなこと、約束なんてできるはずないのに。それでも、それでも言葉にせずにはいられなかったのだ。
「帰ってきたら、また、海行こうな……三人で」
 鴇也が振り返る。見たこともないような、今にも泣き出しそうな表情で。その口が、何かを言おうとして歪んで。
そして、結局、彼は笑った。
「そりゃいいや。ホント、優しいよ、お前って」
 何故か脳裏を過ぎるデジャブ。しかし、それがなんなのかを思い出す前に、彼は再び前へ向き直ると、しっかりとした足取りで、扉へと歩き出した。その姿が扉の向こうに消える前に、千草も身を翻すと歩き出す。きっと彼は振り返らないだろう。後ろを振り返ることをしないやつだから。だから、自分も、振り返らずに。
 帰ろうと、出口に向かった足が、ふいに止まった。案内の掲示板に目が行く。六階、屋上展望台。
 思わず、駆け出していた。


 扉を開けて外に出て、再び階段を登る。一際強い風が髪を吹き乱した。同時に開ける視界。四方を高いフェンスに囲まれた、灰色の空間の遥か上には、真っ青な、真っ青な空。
 誰もいない屋上を、走る。フェンスに駆け寄る。その視線の先で、白い両翼を広げて金属の鳥が飛び立つ。あれは、鴇也が乗っているものではないだろう。それでも、その光景は酷く胸を締め付けた。今更、そう、本当に今更。

 思い出す。あの夜。あの坂の上から、再び二人乗りで碧を家の前まで送り届けて。夏の終わりを告げる蝉の声だけが響く夜道、そこにある碧の家の前で彼を下ろして。
「……なぁ、碧。楽しかったか?」
 そう尋ねると、碧はにっこりと笑った。街灯の乏しい光の下、その白い肌だけがやけに明るく見えた。
「さっきも言ったとおりだよ。すっごく、楽しかった」
「そっか」
 思えば、何と残酷な言葉だったのだろう。何と哀しい約束だったのだろう。自身の空しい願望を繋ぎとめておくためだけのために吐いた、約束という名の儚い幻影。
 あの時自分は、言ったのだ。
「それなら、来年も行こうか」

 碧の笑顔が、サッと消えて。そしてまた笑おうとして、できなくて。下唇を噛んで瞬きして、痛みに耐えるように目を閉じる。まるで投影機で映し出されるフィルムのように、その一瞬の表情が鮮やかに見えた。
 そして最後に、碧は、笑った。
「……優しいなぁ、千草は!」
 ぽろぽろと涙を零しながら、満面の笑顔で。


 遠く、フェンス越し、飛行場の向こうに見えるのは緩く弧を描く水平線。強い風に煽られ細めた目に映るそれは、滲んで霞む。目をごしごしと拭った。それでも水平線は、滲んだままだった。

 夏は何度でも来る。けれど、二度と同じ夏は来ない。
繰り返される季節を何度も通り過ぎたとき、果たしてどれほどのことを覚えていられるのだろう。どれだけの物を変わらず持ち続けていられるのだろう。分からない。何一つ、分かることなどない。それでも。


いつか忘れてしまうとしても、この夏の日を、三人で過ごしたということだけは、確かな事実だった。

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